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 ただいま、と私は言えるだろうか。





□ これから 4 □





 昼時を過ぎた時間に、一台の黒い車が住宅街を走り、やがて一軒の家の前で止まった。
 平日であるためか周辺は静かだ。そのさなかにドアを開け閉めた音を響かせたひじりは、助手席から運転席に座る男と目を合わせるために少し身を屈めた。さらりと流れた髪の向こう、形の良い耳に咲く四葉がちかりと光る。


「送っていただき、ありがとうございました」

「いや。数日時間をやる、落ち着いたら連絡しろ」

「はい」


 赤井の気遣いを素直に受け取って頷くと、車はすぐに発進して角を曲がっていく。見えなくなるまで見送り、からりと晴れた空の下で、ひじりは小さく息を吸って振り返った。
 そこは工藤邸ではなく、その隣に建てられた阿笠邸。新一は何か事件に巻き込まれたらしく、ひじりの身も危ないということで阿笠邸に暫く身を寄せるよう言われている。

 いったい何に巻き込まれたというのか。ひじりが知っている範囲ではジェットコースターの事件だが、まさか黒ずくめ関連とは言わないよな。
 小さく目を眇めれば、ふいにあの夜のことを思い出した。ジョディにジンがまだ撃たれる前。雨に殆ど掻き消されていたが、真新しい血の臭いがしたような。


(……まさかね)


 組織と関わって新一が無事でいられるわけがない。殺されているはずなのにそう聞かないということは生きているから違うだろう。
 考えることをやめ、ひじりは足を踏み出して阿笠邸の門を開けた。玄関横に備え付けられたインターフォンを鳴らす。しかし応えがある前に玄関を開けて入ると、最近見たばかりの屋内が当然のようにそこにあった。


「……ひじり…くん…?」


 ふと耳朶を打った声に天井まで見上げていた視線を下げ、振り返ったひじりは、大きく目を見開いて硬直している博士に礼をしようとして、博士の足元に子供がいることに気づき目を瞬かせた。
 博士と同じく驚愕に目を見開き、眼鏡をかけた、小学生になったばかりくらいの少年。どこか見たことがある顔に、青い服。その服は確か、新一が小さい頃の───


「オメー、今までどこ行ってやがった!!!」


 古い記憶を辿っていれば、少年にいきなり怒鳴りつけられた。さらに少年はずかずかと大股でひじりに歩み寄り、背伸びをして手を引っ張る。特に力を入れてなかったのでされるがまま腰を屈めてみると、やはりどこかで見た憶えのある顔だった。
 だがそんなひじりに構わず、少年はひじりの服を掴むとさらに怒鳴りつけてくる。


「1週間前に事件に巻き込まれたって聞いて、オレ達がどんな気持ちになったか分かってんのか!?しかも同じ誘拐犯に攫われてただと!?警察は、いや黒羽は何してやがった!!!」

「……、…君…?」

「あれだけ気をつけろって言っただろが!ケータイも防犯ブザーも持ってて、何あっさり捕まってやがんだ!!オレがどんだけ心配して、蘭がどんだけ泣いたと思ってる…!!!」

「し、新一、ちょっと落ち着かんか」

「博士は黙ってろ!大体警察も警察だ!目暮警部に訊いても『知らない』『分からない』の一点張り!あんだけ長かった髪も短くなってやがるし…!
 ふざけんなよっ…!オレはまた、何もできねぇってのかよ…!


 少年の怒りに燃えていた顔が、段々悔しさへと変わって湿った唸り声へと変わる。服を力一杯掴む両手はぶるぶると震え、薄い膜が張った見上げてくるその深い青の眼に、思わず彼の名前を紡いだ。


「……新一…?」

「え……あっ!」


 ひじりの呟きにはっと我に返った少年が慌てて手を離す。そっぽ向いて誤魔化そうとしているのだろうが、その顔は相変わらず悔しさで歪んでいて、それに何より博士もこの少年を“新一”と呼んでいたことから、非現実な答えが導き出された。


「……優作さんから、新一が何らかの事件に巻き込まれたって聞いてた。その服は新一が小さい頃のものだよね。眼鏡をかけてても、私にとってはまだ最近の顔だから分かるよ。……どういうこと。私がいない間に何があったの、新一」


 ひじりはやや厳しげに目を細めて俯く少年を見下ろす。だが少年は黙りこんで口を開かず、ぴりりと空気が張り詰めると、ふいに博士が苦笑いで割って入った。


「まあまあ、待ちなさい2人共。……色々と話すこともあるじゃろう、温かいお茶でも飲みながら話さんか?な?」

「……分かりました」

「……」


 ほれほれとリビングへ案内する博士に頷き、ひじりは屈めていた腰を伸ばした。そうして、ちらりと随分視線が遠い少年を見下ろす。少年は無言で歩き出した。その小さな背を見て、自分の唇が苦く歪んでいるのが分かる。


(まさか─── あの姿は)


 嫌な予感が胸をよぎる。
 無意識に左肩に手を当てて、細く息を吐いた。






「……成程」


 目の前に置かれた紅茶に手をつけず俯いたままの少年ではなく、博士から成り行きを聞いたひじりは、ぽつりとひと言だけ発した。

 黒ずくめの男達。銀髪の男にガタイのいい男。
 投与されたらしい薬のことはとりあえず置いといて、ひじりは頭を抱えたくなった。
 ほぼ間違いなく、その黒ずくめはジンとウォッカだろう。

 事の発端は、謎の取引現場を見て写真を撮ってしまったから。
 もうひとり仲間がいたことに気づかず、頭を殴られ毒薬を投与されてしまい、気がついたら今の姿になっていたと。
 迂闊だ。あまりに迂闊すぎる。少々痛い目を見る必要があると思っていたが、一歩間違ったら死んでいた。ジンが試作品とは言え毒薬を選んでくれてよかったと心底思う。


(けど、その毒薬……まさかとは思ったけど)


 脳裏に浮かぶ、新一と同じ年頃の少女。
 ジンと共に彼女のもとに訪れ、何度か“人形”として会ったことがある。話した言葉は多くはなかったが、ジンの言葉と一緒に考えれば彼女の事情も多少は読み取れた。
 今、彼女はどうしているだろう。ふと思ったがすぐに掻き消し、再び博士の言葉に耳を傾ける。


「それでの、工藤新一が生きていると奴らに知られたら、また命を狙われるかもしれん」

「だから誰にも正体は伏せておく、か……それが妥当だろうね」


 頷き、もう一度少年─── 新一、否現在は江戸川コナンと名乗る彼を見る。
 まさかよりによってあの組織に手を出すとは。確かに工藤新一が生きていると知られれば、本人はもちろんのこと、両親をはじめ幼馴染の蘭にも被害は及ぶだろう。彼らは絶対に逃しはしないから。
 だが、それをひじりが口にして忠告することはできない。コナンと博士が他人に正体を吹聴しないと決めたように、ひじりもまた、組織のことをFBIと快斗以外に吹聴することはできない。ここでへたな忠告を入れれば、聡い新一のことだ、ジンとひじりが関係があると分かってしまう危険性がある。
 こちら側の問題に巻き込むわけにはいかない。願わくば、諦めてほしいと思う。あの組織には関わってはならない。
 しかし、新一はコナンとして組織を追い続けるだろう。そして、いずれひじりと新一の道は交差するかもしれない。
 その時が来るまで、協力はしても決して真実を話すまいと、ひじりは決めた。


「……新一。黒ずくめを、追うの?」

「ああ」

「分かった」


 顔を上げてしっかり頷いたコナンに、ひじりも頷きを返す。
 元の体に戻る。そのために、新一は組織を追う。決めたことは撤回しないだろう。新一はそういう男だ。


「……ひじりはオレのことは気にすん」

「それ以上言うと拳骨だから。……話を聞くだけでも危なそうだから、積極的にはできないにしろ、できる範囲で手伝うよ。だって私は、新一のお姉ちゃん、だからね」


 嘘ではないが本当でもないことを言って、だが最後の言葉は本当だった。
 新一側に立つことはできない。だが、慕ってくれる新一の姉として、できる限りのことをしよう。
 コナンはひじりの言葉に目を見開くと、唇を歪めてへたな笑顔をつくった。

 可愛いと思う弟分を騙している自覚はある。真実を知ったとき、新一はひじりに失望するかもしれない。だが、失望されたとしても、ひじりは歩む道を変えたりはしない。決めたのだ、快斗と共に戻れない道を走ると。
 けれどどうか、最後の言葉だけは覚えておいてほしい。






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