30
空はからりと晴れて、春の日差しが心地好い。
学校へ行く前に面会に来た快斗を見送り、点滴も外された
ひじりは暇だろうと快斗が置いて行った「簡単!マジック集」を開いたまま首を傾げた。
「燃えた?」
「ああ。一昨日、お前をあの部屋から連れ出してすぐにな」
□ これから 2 □
ひじりのいたあの部屋にはジンの痕跡が残っていた。だが
ひじりを連れ出し、赤井達と入れ替わりで別の捜査官がアパートに辿り着いたとき、そこは既に業火に包まれてとても中に入れる状態ではなく、消防車が出動したが甲斐なくアパートは全焼。出火場所は当然のように最上階の角部屋だったという。
赤井達が出たことを確認してから火を放ったのか、それとも
ひじりごと燃やし尽くすつもりだったのか。今となっては分からないが、表向き火事の原因は忍び込んだ若者の煙草のポイ捨てが原因と片づけられた。
残るは
ひじりの体に残ったものだけであったが、殆どはシャワーで流れてしまっていたし、それでも採取できた分を秘密裏に鑑定に回そうとした結果、運び屋に選ばれた人間がサンプルごと消された。金目のものがなくなっていたことから警察は強盗殺人とみなしたようだが、赤井には組織の仕業だと分かった。
また一歩ジンに近づけるはずだったが無駄になり、腹立たしくはあるがある程度予想ができていたことだ。だからこそ護衛もつけていたのだが、それすら蹴散らされた。
「流石としか言いようがないですね」
赤井の淡々とした話を聞き終え、
ひじりは無表情にそう言った。
ひじりにとって予想通りの事態だ。特段驚くことではない。
赤井は本に目を落としたままの
ひじりを一瞥し、窓の外に目を向ける。
「これから、お前はどうする」
快斗は
ひじりのために自分の意志でFBI側につくことを決めた。なので約束通り、これから働いてもらうつもりだ。
しかし、赤井達は聞こえは悪いが快斗を騙した。快斗の能力を味方につけるために、本当ではないことを言ったのだ。
ひじりはまだ――― FBIが使う“餌”ではない。
“人形”をやめた
ひじりは、それでもまだジンの“餌”となり得るが、その承諾はしていない。
ひじりが嫌だと言えば無理強いはできない。そのことを敢えて快斗に言わず、さも決定事項であるように振る舞ったことに、果たして快斗は気づいただろうか。
赤井達FBIは、自分達が卑怯であることは自覚している。大人とは打算的且つ合理的な生き物で、未来ある若者の人生を同情しつつ、敢えて逃げ道を残しながら自分達の望む方へ誘導した。快斗は
ひじりのためならば必ず受けると、そう読んで。
「決めましたから。快斗と共に死ぬまで生きるって」
赤井の短い問いに、
ひじりは淡々と返す。
大人は卑怯だ。決して戻れぬ道を選んだ快斗を
ひじりが見捨てることなく共に歩くことを選ぶと知っている。
たとえ快斗が今更騙されたのだと知っても、もう逃げることはできない。だから
ひじりに残されているのはただひとつの選択肢で、迷わずそれを選び取る。
「いいでしょう、私は引き続きあなた達が使うジンの“餌”です」
「……黒羽を巻きこんだことで、俺達を恨むか」
「いいえ。どうせ、快斗はそのうち自力で辿り着く。無鉄砲に突っ込まれる前に提案していただいて感謝します」
何だかんだ、快斗はまだ若い。無駄死にする可能性がぐんと減っただけ感謝すべきだ。
だが、そう思う
ひじりの顔は一片の揺らぎもない無表情で声音は淡々としており、どう見たって感謝しているようには見えない。
実際、
ひじりは素直に感謝しきれないでいた。感謝は確かにしているが、自分のことを棚に上げてよくも巻きこんでくれたなという思いも少なからずある。
だがおそらく、快斗は赤井達の思惑には気づいていて敢えて乗った。
ひじりが“餌”であろうとなかろうと、同じことを選んだ。
奪われる前に奪う。
ひじりがそう覚悟を決めたように。
「ですが私を“餌”として使うのだから、それなりの見返りは要求しますよ」
「何を?」
「私と快斗が無駄死にしないよう、赤井さん、あなたが鍛えてください」
「ご指名か」
赤井が小さく口の端を吊り上げ、
ひじりはそれにしっかり頷いた。
心得のある
ひじりは、赤井が体術・射術共に優れていることを知っている。それにその明晰な頭脳も。
快斗に盗ませ、
ひじりが教えていくだけでは足りない。組織と渡り合っていくのなら、赤井に直接指南を受けなければいずれ自分も快斗もあっさり殺されるだろう。
奪わせない。そのためならば、何でもしよう。
赤井は分かっていたとばかりにひとつ頷き、「それで?」と先を促す。
ひじりにはもうひとつ手札があるだろうと。
「私の知識と技術、使いたくありませんか」
先程、
ひじりは「私と快斗」と言った。自分もまた、取引次第では“餌”だけでなく快斗と同じように“協力者”ともなろう。
ひじりの能力は高い。それこそ原石である快斗と違い、それは磨かれた宝石のように魅力的だろう。
話せるだけの組織内部の情報、体術や銃の扱い、科学知識、爆弾の製造・解体、車から小型飛行機までの操縦、などなど秘めたものは多い。体術は護身術程度で体力がないのが欠点だが、それ以外のものは補って余りある。“人形”である間は決して提供せずにいたそれらは、できれば喉から手が出るほど欲しいもののはずだ。
「条件は」
悩む素振りもなく赤井は即座に言葉を返し、
ひじりもまたすぐに言葉を返す。
「私と快斗がなすことに、一切関与しないこと」
「…ほぉ…?」
「そして私達は、あなた方FBIの“要請”は優先的に聞きます。けれど“命令”は聞きません」
「お前もまた、俺達を使う気か」
赤井が冷たい笑みを浮かべて発した言葉に、
ひじりは無言で意志に煌めく黒曜の眼を返した。
ひじりと快斗はFBIの“協力者”となり手助けはするが、その中で何をしようが不問にすることを
ひじりは要求している。
ひじりにとって、あくまで目的は攻撃ではなく防御である。
ジンから奪われないよう、奪われる前に奪うつもりではいるが、積極的に表に出るつもりはない。
快斗と共に、生きてそして死ぬことができればそれでいいのだ。FBIはそのための道具であり、見切ることは
ひじりにとてできる。
協力関係にはあるがお互いに腹の中に意図を隠し持ち、探り合う。敵対はしない。それだけが明確な関係だ。
愚直ではあるが愚者ではない。あくまで対等であろうとする
ひじりもまた、卑怯者と呼ばれる大人だった。
「どうします?」
答えを分かっている
ひじりの問いに、
「……いいだろう」
赤井は目を伏せると頷いた。
腹に何かを抱えているのは、2人共同じ。互いに信用はしている。信頼もしている。けれど歩む道の先は確実に別たれている。
「馬鹿な女だと思ってはいたが、その性根は随分としたたかだな」
「私、結構図太いんですよ。知りませんでした?」
目を細め茶目っ気をにじませた声音に、赤井は目を瞬かせた。そういえば、赤井に対して感情らしい感情をあらわにしたのは初めてかもしれない。
“人形”はもういないのだから、少しずつ人間らしい感情は自然と表に出るだろう。だが、あの溌溂とした時期を完全に取り戻すことはない。
ひじりは5年で変わってしまった。
無表情が常で言葉は淡々としていて、表に出る些細な感情の動きに気づく人間は少ない。それでも分かる人間には分かるだろうし、分かってほしい人に分かってもらえればそれでいい。
赤井は
ひじりに小さく笑うと、その髪が短くなった頭に手を置いてぐしゃりと撫でた。
固く大きな手。けれど、快斗と同じようにあたたかい手だ。
「……ボスとジョディは一度日本を離れる」
「そうですか」
「本格的に動き始めるまでには、お前らを使いものにできるまでにしてやろう」
ひじりを見据え、にやりと背筋が冷えるような笑みを浮かべた赤井に、
ひじりは今ここにいない快斗へ手を合わせた。
主にしごかれる羽目になるのは快斗だ。短い時間で詰め込まなければならないものもたくさんある。赤井は手を抜かない。それこそ死に物狂いになるだろう。
赤井がすぐさま携帯電話を取り出しメールを打ち出したのを見て、その文面を予想し少々不憫になる。もっとも、そうなるようにしたのは
ひじり本人なのだが。
(……うん、快斗頑張れ)
ひじりが退院するまで約1週間。
その間マンツーマンで叩き込まれることになる快斗に、
ひじりは他人事のような声援を飛ばした。
「――― はぁああああぁあぁあああああああっ!?」
江古田高校に驚愕の声を響かせて顔を真っ青にした快斗がいたことを、
ひじりは知る由もない。
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