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ひじりさん、ハサミってこれでいい?」

「うん。ありがとう」

「けど何でいきなりハサミなんて…」

「“人形”はもう、いないから」


 ジャキン


 躊躇いなく黒髪を銀の刃で切り落とすと、快斗の悲鳴が病院内に轟いた。





□ これから 1 □





 シャキン、シャキン


 鋭い音が耳の近くでするのを聴きながら、ひじりはぱらぱらと床に敷いた新聞紙に落ちる自分の髪を見下ろしていた。
 あの後、快斗の悲鳴に驚いてジョディと赤井が病室に駆けこみ、ひじりが無表情にざくざくと自分の髪の毛を切り落としていたのを見て唖然とした。
 3人が我に返ったのはひじりが肩より少し長いくらいまで髪をざんばらに切り落とした後で、慌ててジョディがひじりの手からハサミを取り上げ、何をしているのという戸惑いに満ちた問いにひじりが“人形”の証を切り落としたのだと淡々と答えると、ジョディは何度か口を開閉したあと、深いため息をついてひとり病室を出て行った。暫くして戻って来た彼女の手には、櫛と数枚の新聞紙ときちんとした髪切りバサミ。


「切りたいなら美容室にでも連れて行ったのに」


 呆れ混じりの声で言いながら床に新聞紙を敷き、その上に背凭れのないイスを置いてひじりを座らせたジョディは、深いため息をついた赤井が出て行った部屋でざんばらになったひじりの髪を切り揃えている。
 快斗は自分が座っていたパイプイスに座りながら少しもったいなさそうに切られた髪を見ていたが、切り替えたのか髪が短く切り揃えられていくひじりを目を瞬かせて見ていた。
 それを正面に捉えながら、ひじりはジョディに言い返すべく口を開く。


「他人に切られる前に、自分で切り落としたかったんです」


 “人形”であった証を、自分自身の手で。首輪はもう外されてしまったのだから。
 櫛で髪を揃えながらハサミを動かしていくジョディは、ひじりの言葉に今度はくすりと笑みをこぼす。


「それにしても唐突すぎね。快斗君すごくびっくりしてたわよ」

「そうですね。ごめん快斗、驚かせて」

「あ…い、いえ。もう大丈夫です」


 もう“人形”ではない、“人間”なのだと早く髪を切ることばかり気が急いて、ひじりは快斗にろくな説明もせずハサミを持って来させていきなり髪を切り落としたのだから、さぞ驚かせてしまっただろう。
 素直に謝ると快斗は自分の情けない悲鳴を思い出してか、恥ずかしそうに頬を掻くと首を振った。

 鏡も見ずに適当に切ってしまったため髪はざんばらになり、ジョディが切り揃えてくれているが一番短く切ってしまった髪に合わせている。
 だから腰より長かった髪は、肩につくかつかないかギリギリのところまでになってしまっていた。思った以上に短くなってしまったが、その方がよかったのかもしれない。


「ああ、そうだジョディさん」

「ん?」

「私、ジンを殺します」


 何てことないように淡々とひじりが放った言葉に、暖房と太陽の光で暖められていた部屋がひやりと冷えた。
 ジョディは指を止め、だが細く息を吐いただけで再び動きを再開する。快斗がぽかんと口を開けて呆然として、目の前でひらひらと手を振ってみた。


「……はっ!ひじりさん、それどういう意味ですか!?」

「ジンは、いずれ私を殺しに来る。そしてまた全てを奪いに来る。そんなことさせない、快斗も私も、絶対に奪わせない。だから私が、奪われる前に奪う。この手で─── 殺す」


 静かで感情のこもらない声音だったが、ひじりの言葉には揺るぎない決意に満ちていた。
 二度と奪わせない。殺させない。そうなる前に、私が。


「……彼に辿り着く手はあるの?」

「いいえ、私は追いません。ジンが奪いに来たときに、迎え撃つだけです」


 だからジョディさん達の邪魔はしませんとひじりは続け、その意志に快斗がほっと息をついた。
 わざわざ火の中へ突っ込んではいかない。飛んできた火の粉を全力で払う。それだけだ。


「私は生きている限り“餌”ですが、もう無抵抗ではないんですよ」


 ひじりは自分の立場を、役目をよく理解している。それに反論はない。けれど黙ってもいられない。目の前にジンが現れたなら、赤井達を待たずひじりはジンを殺そうとするだろう。
 ひじりには、それができるだけの能力がある。


「ごめん、快斗。もう決めたことなんだ」

「……構いません。オレもきっと、同じことをする」


 快斗は、もしジンが再び現れひじりを奪おうとするなら─── ひじりが殺す前に、自身の手で引き金を引くだろう。
 だが、殺しはしない。殺してなんかやらない。ひじりにジンを殺させないために、自分が先に無力化して警察へ引き渡す。
 護るためにではない。正義感からでもない。これはただの醜い嫉妬だ。殺意という情ですらジンには渡さないという、ぞろりと腹の奥底で蠢く感情に我ながら苦笑する。

 そんなひじりと快斗を交互に見て、ジョディは何とかため息を呑みこんだ。
 まだまだ若い者達がこうも凄絶な覚悟を持つなど、本来なら決してあってはならないことだ。そんなことをさせる前に、自分達が何とかしなければならない。
 脅迫観念にも似た決意を胸の内でして、最後に小さく刃を動かしたジョディはひじりの包帯が巻かれた首の後ろを払った。


「はい、できた」

「ありがとうございます」

「短いのも似合ってますね、ひじりさん」


 ジョディに礼を言ってイスから下りたひじりを快斗が手放しで褒める。それにひじりは嬉しそうに目を細めた。
 こうして見れば、2人はお似合いの変哲もないカップルだ。その手を赤く染めずにいられる人生をジョディは願う。

 イスをどけ、新聞紙に髪を纏めてごみ箱に入れる。
 ひじりはすっかり涼しくなったうなじを撫でていて、その首から包帯が外れるまで退院は許されていない。
 ジョディは彼女の首から僅かに視線を下げた。ひじりの肩の傷は残ってしまうが服で隠せる。手首の擦り傷や鬱血痕さえ消えてしまえば包帯は外れるため、大事を取って数週間ほど入院してもらうことになっていた。

 快斗は母親が海外に行っていて1人だからひじりにつくと言うが、彼の本分は学生である。
 本来面会謝絶としているが特別に面会は許されているので、放課後に通い詰めることになりそうだ。

 後見人─── 工藤優作には既に連絡してある。
 事件に再び巻きこまれたが助け出した。犯人は取り逃がしたが、暫く命の危険はないだろうと。
 それでもこれからずっと安全な日常を送れるとは言えないため、工藤邸を出てホテルか新しくマンションなどを借りるかどうかは、優作次第だ。同居人の工藤新一に関しては優作の方から伝えておくということなので、彼が騒ぎ立てることはないだろう。


「そうだひじりさん、これで何か造り直せないかジイちゃんに訊いてみますね」

「快斗にもらったものだし、できるならお願いしたい」

「じゃあオレが預かっときます」


 シャワーに打たれ気を失っていたときから握り締めていた手には、どうやらいくつかの翠の欠片が握られていたらしい。
 会話を聞いてみると快斗にもらったもので、いくら砕けていても捨てるのは忍びないと。その意志を汲んだ快斗が提案する。
 そんな微笑ましいやりとりを見ながら、ジョディは目を細めて微笑んでいた。





■   ■   ■






「……ああ、俺だ。約束は果たしたぞ」

『随分と時間がかかったんだな』

「馬鹿言うな。ただでさえ厄介な組織で手強い男だった上に、あれ本人が望まなかったから仕方がない」

『ああ、あの子は頑固だからな。……だが、約束を果たしたということは、あの子は解放されたのだろう?』

「まだ安全ではないがな。それと、生きている限り“餌”であることに変わりはない」

『それでもいいさ。あの子が人として生きているのなら。礼を言う』

「……礼は、本当の意味で助け出した少年に言うんだな」

『少年?』

「お前の旧友の息子だ。会えるかは分からんがな」

『……まさか、あいつの子か』

「立派に父親の跡を継いでいるようだ。蛙の子は蛙…というわけか。ふん、なかなかいい眼をしていた。まだまだ知識や技術は未熟だが、磨けばいいものになるだろう」

『……お前』

「あいつは子供だが、俺達の領分へ自ら踏みこんできたのだから大人の対応をするのが礼儀だろう?」

『……あの子らは、それを望んだんだな』

「あいつらは見てて馬鹿馬鹿しくなるほど愚直だ。若さ故か。嫌いじゃない」

『そうか。何にせよ、俺はもう自由に会いに行けない。どうか殺させるな。それだけ頼む』

「……あれは解放された。なのにまだ追うのか?」

『諦めるものか。あいつらは俺の全てを奪ったんだ。復讐は必ずする。そのためにこの5年、打てる手は全て打ってきた。今更止めてくれるなよ。……悪い、人が来た』

「客か?忙しそうだな」

『客じゃない、面倒事ばかり持ってくる厄介な連中だ。……今電話中だ、黙ってろ』

「切るぞ」

『ああ、赤井。─── ありがとう』


 ぶつり


 切れた電話を一瞥して、赤井は携帯電話をポケットに突っ込んだ。






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