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赤ワインの海の中で意識を失い、スタート地点で目覚めたコナンは、自身の赤く染まったシャツを見て成程と内心で呟いた。ホームズの言葉は、赤ワインでショックをやわらげろ、という意味だったのだ。
ふとコナンは辺りを見渡し、秀樹はいるのに蘭がいないのを見て、もしやゲームオーバーになったのかと焦った。しかし2人はこうしてここにいる。ゲームはゴールに辿り着いた─── クリアしたとみなしてもいいだろう。
ほっとしてホームズ、そして父親に感謝していると隣で身じろぐ気配がして、振り返れば秀樹が起きてたのかと言いながら立ち上がった。
「どうやら、お前の勝ちのようだな…」
「お前の…?」
秀樹の言葉に訝り、そしてすぐに理解する。
笑みを浮かべ、やっぱりそうだったのかと、自分の考えが正しかったことを知った。
彼は秀樹ではない。ノアズ・アーク─── あるいは、ヒロキだ。
□ ベイカー街の亡霊 20 □
時間は少しだけ遡る。
ひじりが谷底へと落ちてゲームオーバーとなり退場した、そのあと。
本来ならば他の脱落者と共に意識を闇の底へと沈ませていたはずだった
ひじりは、現実世界でこそステージの下へとコクーンが収まっていったが─── その意識は、とある空間で目覚めた。
「……?」
ふ、と意識が持ち上がり、目を開け軽く頭を振って焦点を正すと、
ひじりは自分が1人用の座り心地の良いソファに腰かけていることに気づいた。
着ているものは変わらない。快斗の上着も着たままだ。ブーツもそのまま。両手両足も自由が利く。体の重さも抜けて、五感も正常に機能している。半ば反射的にそれらを素早く確認し、ゆっくりと顔を上げていくと、少し離れた場所に
ひじりが腰かけるソファと同じものが据えられていて、さらにそこに1人の男が足を組んで座っていることにも気づいた。
「お目覚めかい、フェアリー」
今まで何度か聞いた中で一番優しげに声を響かせた男は、目につく赤いジャケットを身に纏っている。深く腰掛けて足を組み、腹のあたりで指を組んで真っ直ぐに視線を向けてくる男を、
ひじりはようやくはっきりとしてきた意識で捉えた。
「私は、ゲームオーバーになったはずでは?」
「その通りだ。お前さんは大事な弟分に後を任せ、同じく大事な妹分の代わりに谷底に落ちてゲームオーバーになった」
「……私のことに、随分と詳しいようで」
「まぁな。お前さんの家族のこともある程度知っているよ。フェアリーの愛しい愛しい彼氏が、俺と同業の泥棒だってこともな」
ぴくり。
ひじりの眉が一瞬跳ね、同業、という言葉が引っ掛かって僅かにひそめられる。つまりそれは、目の前の男も泥棒であるということ。単なる窃盗犯とは、思えないが。
僅かに鋭さを増した
ひじりの視線に、男はくつくつと喉を鳴らして「そう警戒すんなよ」と笑った。
「言っただろ?俺はお前さんの関係者の関係者。敵にはならねぇよ」
「快斗の─── ひいてはキッドの、敵には?」
「おっと、一番気にするところはそこか。大丈夫大丈夫、あっちが変に手を出してきさえしなきゃ、何にもしねーよ」
「ですが、そちらから変な手を出してきたら、即座に敵とみなします」
からからと安心させるように笑う男に厳しい目を向けて言い切ると、男はきょとりと目を瞬き、何がツボに入ったのか、ブッフォ!と噴き出し腹を抱えて笑った。
「あっはははははは!!愛されてんねー、あの少年は!」
「……私達を、愚かだと思いますか」
ぽつり、
ひじりはそんな問いを男へ向けた。
なぜそんな言葉が口をついて出たのかは分からない。分からないが、気づけばそう問うていた。そして男は、ゆっくりと穏やかな優しい笑みを浮かべて首を振る。
「いいさ。アリだと思うぜ?第三者から何と思われようと、バカだ愚かだと罵られようと、お前達の決めたお前達だけの関係を貫けばいい。他人がどうこう言えるもんじゃねーよ」
「あなたにも、そんな関係があるんですか?」
「……まぁな。否定はしねぇ。そんだけイイ女さ、あいつは」
男の細めた目には、誰が映っているのだろう。しかしそれを問う気にはなれず、むしろ素直に答えてくれたことに驚きつつも「そうですか」と短い言葉を返す。そこから2人は少しだけ無言になり、先に口を開いたのは
ひじりの方だった。
「ここはどこですか?」
「んー。一応まだゲームの中ってとこかな。俺がちょちょいっと干渉して作り出した、誰にも見られない、俺と君だけの愛の巣ってとこ?」
「舌を噛み切ればここから出られますかね」
「
待って待って冗談、ジョーダンだから!ね?だからそんな物騒なことをしようとしないでちょーだいよ!」
冗談通じねぇんだから、とため息をつかれるが、そんな下らない話をするつもりなどない。ちなみに
ひじりは本気だ。
小さくため息をついて真面目な答えを求めると、男は後頭部をガリガリと掻き、あながち間違いでもないんだけどなぁと呟きをこぼす。
「ゲームはノアズ・アークが支配してる。それは間違いない。けど実は俺、ノアズ・アークとちょ~っと関係持っててよ。たった1人、“サポーターバッジ”を持つ女の手助けをさせてもらうよう約束してたってわけ」
「…鈴村さんは、あなたとグルだったというわけですか?」
「いんやぁ?お前にバッジを渡した鈴村は俺だったよ。まぁちょちょっと変装して顔を借りたのさ」
「つまり、最初から私をこのゲームに引き込むつもりだったと」
「そうそう」
「ノアズ・アークが私達に命を賭けさせることも、当然知っていたんですよね」
「あ、やっぱりそこまで気づいちゃう?」
にへらと男が笑う。半眼に目を据わらせて見るが、男の表情は変わらない。
ひじりはため息をつき、もうふたつ、と人差し指と中指を立てて付け加えた。
「危険なゲームと知ってて私を放り込んだあなたの目的は、何ですか」
さらに、“サポーター専用のお助けキャラ”などと言って度々現れ、助けてくれた理由は。
鋭い光を宿した黒曜の瞳を向けると、男は一転して不敵な笑みを浮かべ、頬杖をついてくつりと喉を鳴らす。
「フェアリーを、見極めることさ。お前の関係者と、組織が執着するその理由が知りたくてな」
見極める。
ひじりの関係者と組織が執着する、その理由。
ひじりの関係者というのが誰なのかは分からないが、組織というのはジンやウォッカが所属する組織のことだろう。男はゲーム内で、
ひじりのことをドールと呼んだことから間違いない。
聞きたいことはまだいくつもある。気になることも。けれど男は、明確な答えを出す気はさらさらないのだろう。細められた目には油断ならない光が宿り、今尚彼は値踏みするかのような視線を向けている。
ひじりは、一度目を閉じた。
知るべきこと。知らないでいいこと。それを頭の中で整理する。
知るべきことは、男が敵か否か。
ひじりと快斗の敵になるのなら、容赦はしない。
知らないでいいことは、それ以外だ。男がなぜ
ひじりを“フェアリー”と呼ぶのか、組織が
ひじりに執着しているとはどういうことか。
そんなことは、知らないでいい。知らないままでいい。ジン以外の組織関連は、全て赤井達FBIに投げるつもりだから。
ひじりはただ、ジンを殺すまで、あるいは全てが解決するまで、快斗と生きてさえいられれば、それでいいのだ。
「……」
「バカと天才は紙一重だって、お前を見てると実感するよ」
「失礼ですね」
「けど事実だ。知りたいかそうでないかじゃなくて、知る必要があるかないかで情報を仕分け、『必要ない』と一度判断すれば、敢えて完全に目を逸らすことのできる人間はそう多くない」
「……」
黙りこむ
ひじりに、男は変わらず笑みを浮かべたまま、感心のようなため息をつく。まったく、器用な人間だよと小さく言われた。
「そんなお前だから、俺は敢えて教えてやろう。俺がなぜ、お前を“フェアリー”と呼ぶのか」
「結構です」
「“フェアリー”が何を差すか、知ってるか?」
結構だと言っているのに男は笑顔で言葉を続け、
ひじりが黙りこんで言わずとも、そう、と抑揚を上げてにんまりとした笑みを浮かべた。
フェアリーと聞いて直感的に思い浮かぶのは“妖精”。しかしそれ以外にもたくさんの意味を持ち、人外のもの、超常的な力を持つもの、神、精霊、悪魔、善なるもの、悪なるもの、などなど、国や地域によってその意味は広く変わる。多種多様な顔を持つもの。あるいは“概念”ですらあるそれ。
「なぁドール、ラプンツェル、眠り姫、飛べない鳩、組織の“餌”、それに黒澤道流という偽名もあったな。まだある。様々な呼称をされる工藤
ひじりに…
それだけでは済まない女に、
何者でもあり何者でもないお前に、ぴったりなあだ名だと思わねーか?
─── なぁ、
フェアリー」
笑う。嗤う。
嘲笑う。男は、底の知れない深い目で
ひじりを射抜いて、わらう。
ひじりを称す、その全てを知っているだろう男に反論する言葉を
ひじりは持たず、かと言って耳を塞ぐこともできなかった。しかし無表情だけは貫いて無言のままでいると、男はおもむろに右腕を上げて穏やかな笑みへと戻す。
「ま、俺はお前の“あだ名”を知っているだけで、全てを知ってるわけじゃない。だからここにいる。それと残念だが、そろそろ時間だ。どうやらあのガキンチョは、無事ゴールしたようだぜ?」
「そうですか」
男からの吉報を淡々と受け取り、軽く目を閉ざす。
では早く帰してください。無言でそう促す
ひじりに、男はハハッと耐えきれないとばかりに笑う。
「流石、アイツの娘だよ、お前は。いい土産話ができたぜ」
「……」
「これも知りたくはなかった情報か? ─── 優哉は、元気に医者業してるぜ。アイツに内緒でお前を巻き込んじまったから、メスの一本は飛んできそうなくらいによ」
「……あなたは」
綺麗なウインクをしてみせた男に、
ひじりは再度、問いかける。
「あなたは、誰ですか」
パチン。男の指が鳴る。同時に
ひじりの意識に紗がかかった。
ぐらりと体が揺れてソファに深く沈み込む。向かいに座った男の笑みを含んだ答えが、遠ざかる意識の中で聞こえた。
「─── ルパン三世」
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