152
落下していった大切な存在を見てることしかできなかったコナンは、悔しげに唇を噛んで屋根に拳を叩きつけ、「くそっ!」と吐き捨てる。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。列車を止めて、生きて、現実世界へ帰らなければ。
ひじりと共に谷底に落ちていったジャック・ザ・リッパーを、これで捕まえたことになるのかは分からない。しかしとにかくすべきことは、生き残ることだ。
「あの、バカ野郎が…!」
快斗はコナンを庇って─── 否、それは
ひじりに何かを知らせるための一部でしかなく、
ひじりのために快斗はゲームオーバーとなり、
ひじりもまた、快斗のために自らゲームオーバーとなった。
最善の選択。間違ってはいない。頼みの綱の蘭は助かった。生き残れる。分かっている。
けれど納得しない心が、愚かしい最善の選択をした2人を責めたかった。
□ ベイカー街の亡霊 19 □
ひじりが残していったナイフで蘭を縛るロープを切り、自由を再び得た蘭は、
ひじりが落ちた谷底を一度振り返り、しかしすぐに目許に滲んだ涙を拭って立ち上がる。
「コナン君、わたしは何をすればいい?」
「列車はもう止められない。機関車と客車の連結部分を引き離そう!」
「分かった!」
もう時間は残っていない。列車はどんどんスピードを上げ、数分足らずで終着駅へ突っ込んでしまう。3人は急いで機関車へと向かい、客車の方へと乗ると、蘭が気合いを入れて連結部分に手をかけた。
「─── ん~~~~っ!!!」
「頑張って、蘭姉ちゃん!」
「頼むよ姉ちゃん!」
「くっ…!……
あああああああっ!!!」
ガチャン!!!
大きな金属音を立て、連結部分が外れた。やった!!と秀樹が満面の笑みを見せ、疲れを滲ませる蘭が笑い、コナンもほっと安心したような息をつく。
機関車が先へとどんどん進む。これで大丈夫かと、一応確認のため屋根に上って先を見たコナンは、しかしその光景を目にした瞬間、息を呑んで顔を青褪めさせた。
「やばい!」
「ど、どうしたんだよメガネ!」
「もう駅がすぐそこだ!切り離してスピードが落ちたとは言え、このままじゃ機関車と同じように駅に突っ込んじまうぞ!!」
「ええ!?」
どうやら、思った以上にジャック・ザ・リッパーとの戦いで時間を浪費してしまったらしい。
慌てて上って来た蘭と秀樹は、コナンの言うことが正しいと知って呆然とする。
(どうする…せっかく黒羽と
ひじりが繋いでくれたこのチャンスを、無駄にしてたまるかよ!!!)
それに、コナン達には他の47名の命がかかっている。ここで諦めるわけにはいかない。
だが、手がない。列車から飛び降りるにしても、切り離したばかりの列車は時速80キロは下らない。そこから飛び降りるとなると、死なないにしても間違いなく大怪我を負う。そうなればゲームオーバーだ。かと言って、列車が速度を落とすのを待つ時間もない。どうする、どうする、どうする!
「コナン君、どうしよう!?」
「……」
「おいメガネ!何か、何か手はないのかよ!このままオレ達死んじまうぞ!」
「……」
「メガネ!!」
「
うっせぇな!オレだって考えてんだよ!でもねーんだよ!このままじゃこの列車も駅に突っ込んじまうし、でも停める方法なんかない、だからって飛び降りたところでゲームオーバーだ!!」
「…!」
胸倉を掴んで揺らす秀樹にコナンが怒鳴り、それにひるんだ秀樹の手が離される。そんな…と蘭は悲愴に暮れた顔をして俯いた。コナンがその場にへたりこみ、力無い声で呟く。
「……ダメだ…もう打つ手がねぇ。もうダメだよ…父さん」
流れていく夜空を見上げながら諦めの言葉を口にするコナンに、秀樹も蘭も、かける言葉をなくしてただ流れて行く景色を呆然と眺め続けるしかなかった。
切り離した客車は、確かにスピードを徐々に落としている。だがコナン達が無事でいられるだけのスピードには程遠い。
(…悪い、
ひじり…)
──── この先はあなたに賭けるよ…名探偵
久しぶりに、笑った顔を見れたのに。
快斗も、
ひじりも、他のみんなも。懸けてくれた命を無駄にしてしまう。
俯いてただ座り込む3人。
そこへ、何の前兆もなく唐突に光が走った。3人の前に現れた光は徐々に人の形を取り、色をつけ、見覚えのある姿を笑い声と共に現す。
「「「!?」」」
「ハッハッハッハッハッハッハッ…」
それは最初、ベイカー街の近く、路地を抜けた先で見た、アコーディオンを弾きながら不穏な歌を歌っていた浮浪者だった。
くたびれたコート。すり切れたズボン。くたくたの帽子を目深にかぶり、ヒゲも髪も伸び放題のざんばらで。唐突に現れた浮浪者の男は、その手に持ったアコーディオンを弾くことなく3人へと言葉を投げかける。
「お前達はまだ血まみれになっていない…まだ生きてるじゃないか。もう諦めるのか…」
笑みを浮かべ、意味深なことを言う男に、コナンが顔を上げて目を瞠る。
「既にお前らは…真実を解く結び目に、両の手をかけているというのに…ハッハッハッハッハッハッハッハ…!」
何がおかしいのか、男はまた高笑いをすると、立ち上がったコナンへ向けてさらに言葉を続けた。
「人生という無色の糸の束には───」
浮浪者の男が、言葉の途中で再び光に包まれる。光はゆらりと形を変え、一瞬で今度は全く別の人間の形と声を成した。
「殺人という、真っ赤な糸が混ざっている」
その男もまた、見覚えのある人物だった。
鹿撃ち帽に、インバネスコート。そのふたつは、かの名探偵を現す特徴だ。
まさかの登場による驚きに彼の名を告げることも忘れて呆然としていると、そんなコナンを意に介さず、彼は笑みを浮かべたまま言葉をさらに続けた。
「それを解きほぐすのが─── 我々の仕事なんじゃないのかね…?」
言葉の途中で男の姿が光に包まれ、今度はまた浮浪者の姿を取る。しかし声はそのままで、そこでやっと、コナンは彼の名を口にした。
「ホームズ!」
浮浪者の男はそれ以上何も告げることなく、光となって霧散した。コナンは知らなかったが、その消え方は、先程赤いジャケットを身に纏っていた男の消え方と同じだった。
コナンは今見たホームズが信じられないのか「彼は今ダートムーアに…」と呟き、バグかと難しい顔をしていると、秀樹が困惑した顔で眉をひそめた。
「どういう意味だ?ジャック・ザ・リッパーは死んだのに、どうしてオレ達、血まみれにならなくちゃ…」
問いかけてくる秀樹を振り返り、彼が纏う服を見たコナンは目を見開いてそれを乱暴に引っ掴んだ。
「これだ!こういうことだったんだ!」
1人で理解すると、コナンは「貨物車!」と叫ぶと叫んだ通り貨物車へ向かって走り出した。
突然走り出したコナンに、どういうことだと当然秀樹が問いを飛ばす。しかしコナンは「いいから来い!」とそれに答えず、蘭も何が何だか分からないながらも指示に従って走り出した。
走って最後尾の貨物車へ辿り着き、蘭が素早く天井の入口を開けて滑り込む。コナンと秀樹がそれに続き、コナンは秀樹に向かって壁にかけられた斧を指差すと赤ワインの樽を割るように指示を出した。そっか、そういうことね!と蘭がコナンの意図に気づく。ひとつ頷いたコナンもまた反対側にかけられた斧を手にする。
「ごめん蘭姉ちゃん、素手で割ってくれる!?」
「もちろん!任せといて!!」
子供2人は斧を手に、蘭は素手で次々とワイン樽を割っていく。樽の中のワインが勢いよく流れ出て、全てを割ると貨物車を満杯にするほどの量になった。
「ボクが合図したら、2人共潜るんだ!」
「分かったわ」
「あ、ああ…」
蘭が素直に頷き、秀樹が戸惑いながらも頷く。
それからタイミングを計り、先に轟音が聞こえて、どうやら機関車が駅に突っ込んだことを3人は知った。
「─── 今だ!」
コナンの合図に、3人が一斉にワインの海へと潜る。機関車の後ろへと追撃するように客車が駅へと突っ込み、貨物車も右へ左へと大きく揺れた。
そんな中、蘭は手探りでコナンと秀樹を見つけ、庇うように抱きしめる。するとさらに大きく揺れ、もはや左右上下も判らなくなった。しかしそれでも、両腕に抱えた子供2人を蘭は決して離さなかった。
(…
ひじりお姉ちゃん…!)
護るつもりだったのに。ジャック・ザ・リッパーに立ち向かい、今度こそと思ったのに。
なのに力及ばず捕われて人質にされ、快斗がゲームオーバーとなり、後を追うように
ひじりもまた谷底へと消えた。
だから今度は、自分が。先にゲームオーバーとなってしまった2人に代わって、せめてコナンか秀樹のどちらかでも助かることに、蘭は自分の命を懸けた。
← top →