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 光に包まれ、ゲームオーバーとなって世界から弾き出された快斗は、薄れゆく意識の中、小さく笑う。


(ちょっとあれは、卑怯だったかな…)


 でも、いいじゃないか。たまには自分だってわがままを言ってみたい。
 そして彼女がそれに応えてくれるのか、試してみたかった。





□ ベイカー街の亡霊 18 □





 快斗が、消えた。ゲームオーバーになったのだ。
 ジャック・ザ・リッパーは突然消えた快斗に訝り、しかしゲームの登場人物として補正が利いたのか、特に突っ込むことなく、おもちゃが壊れてつまらないとでも言いたげな顔をしただけだった。
 それを視界に入れながらも意識には留めず、ひじりはただ、快斗がいた1点だけを見つめていた。
 消えた。ゲームオーバー。死。笑いながら、聞き覚えのある言葉を残して、ひじりに向けて言葉を置いて。


「─── かいと…」


 呆然と呟く。しかし心とは裏腹に頭が瞬時に動き出し、快斗が残していった意図を素早く理解した。そう、今の今まで、快斗が言うまで忘れていた。あの赤いジャケットの男の言葉。ひじり専用のお助けキャラ。
 ひじりはゆっくりと激痛の抜けきらない体を起こし、四つん這いになって俯いたままあの赤ジャケットの男を思い浮かべた。
 呼吸を繰り返すたびに体中が痛む。しかしそれを極力無視するように意識の端へと無理やり押しやり、僅かに眉をひそめて脂汗を滲ませたひじりは、掠れそうになる声で何とか言葉を紡いだ。


「…助けて、ください」

「おお、いいぜ?」

「え!?」


 ひじりの小さな要請にすぐさま返事があり、蘭は瞬きをした瞬間に現れた見知らぬ男に驚愕する。ジャック・ザ・リッパーとコナンは、お互い向き合って攻防しているためこちらに気づいていない。何とか列車の突起に掴まる秀樹も、いったい何なんだと目を見開いている。
 しかしそれら全てを無視して、ひじりは顔を上げて赤いジャケットをなびかせる男を見上げた。男は、ズボンのポケットに突っ込んでいた手を出し、大仰に腕を広げて笑い、問う。


「何を望む?何を選ぶ?限定された可能な選択肢の中、お前は何を掴む?」

「……」

「俺が直接手出しすることはできねぇ。俺はお前のお助けキャラだからな」

「……」

「さぁ、答えろ。だがお前が不可能を望んだ瞬間、俺は消えるぜ。チャンスは1回だ」


 真剣な顔で笑いながら最後に聞いていなかった条件を突きつけた男に、しかしひじりは表情を変えなかった。そして、淡々と感情のこもらない声で告げる。


「ナイフを」

「成程、武器か。仇討ちでもしようってか?」

「……」


 男の問いに、ひじりは答えない。ただ無表情に、その黒曜の瞳の闇を深めて見つめるだけだ。その眼を見て、男は肩をすくめ「オーケィ」と頷いた。そして、懐から1本の小振りのナイフを取り出してひじりの前に落とす。
 カランと乾いた金属音を立てて転がるナイフ。ひじりがそれを迷い無く手にして鞘を投げ捨てると、男は笑みを深め、トランプクラブの裏口から消えたように、ふっと光の残滓だけを残して消えた。
 また蘭と秀樹が驚愕の声を上げる。やはりそれに表情を変えず、ひじりは軋む体を何とか起こしナイフを手にしたまま立ち上がった。


(…快斗のわがまま、聞いてあげなくちゃね)


 だって、私はずっとあなたにわがままを言い続けてきたんだから。
 そして快斗は、それに嫌な顔ひとつせず応えてくれていた。喜んでと、笑って。
 先程だってまさに、ひじりのために死んでくれたのだ。手に持ったカードに気づかせ、そこから最善の選択に導いてくれた。


ひじり…お姉ちゃん?」

「ね、姉ちゃん何するつもりだよ?」


 後ろからふたつの声がかかるがそれに答えず、ひじりは軽くナイフを動かすとジャック・ザ・リッパーのもとへと足を進めた。わざと足音を立てれば、コナンを追い詰めていたジャック・ザ・リッパーが訝しげに振り返る。ひじりが右手にナイフを持っていることに気づいて目を瞠り、だがすぐに愉しそうに唇を笑みに歪めた。


「さっき俺に負けたくせに、仇討ちか?」

「…私は、この場での最善の選択をするだけ」

「……?」


 肯定も否定もなく、ひじりの意図が読めない言葉に、ジャック・ザ・リッパーが首を傾げる。だがそれ以上は彼に言葉をかけず、ひじりはコナンを見下ろして口を開いた。


「この先はあなたに賭けるよ…名探偵」

ひじり…?」


 訝るコナンに、ひじりは小さく小さく、見間違いかと思うほど小さな笑みを浮かべた。それはコナンだからこそ気づいたもので、ジャック・ザ・リッパーにはただの無表情にしか見えなかっただろう。
 そして、コナンは気づく。ひじりの左手に握られた物。ジャック・ザ・リッパーと蘭を繋ぐロープ。なぜそれを。


「!」


 はっとしてコナンが蘭の方を振り返る。蘭はまだ縛られたままだが、ジャック・ザ・リッパーと繋がるロープが、切られていた。
 蘭はただ、呆然とひじりを見上げている。嫌な予感を覚えたコナンが血相を変えてひじりへ叫んだ。


ひじり、お前まさか…!」


「─── 快斗が、待ってるから」


 先にいくって、待ってるからって、言ってたから。
 そう、小さいながらも綺麗に笑ったひじりは、手に持っていたナイフを足元に投げ捨て、ジャック・ザ・リッパーがそれに気を取られた隙に、躊躇いなく谷底へと身を投げた。


「なぁっ!?!??!」

ひじり!!」

ひじりお姉ちゃん!!」

「姉ちゃん!」



 繋がったロープに引っ張られて落ちるジャック・ザ・リッパーがようやくひじりの意図を悟ってナイフでロープを切ろうとするが、もう遅い。
 コナンと蘭、秀樹の悲鳴のような声が聞こえる。ジャック・ザ・リッパーの太い悲鳴がそれを掻き消した。

 ふわり、浮遊感。けれど確実にひじりの体は谷底へと向かって落ちる。何とか体を反転させて上を見上げた。
 列車は遠く、空も遠く、もう大事な弟妹分は見えなくなって、何度も助けてくれた白い鳥はいないけれど。落としていったナイフで、蘭は自由になる。そうすれば列車の連結を切り離すことができて、彼らは助かる。


 ──── 生きて、帰りましょうね。そのための最善の選択を、あなたはできる。


 快斗の声が脳裏に響いて、薄く笑った。
 自己犠牲。そうかもしれない。けれどこれが、あの場で一番の、最善の選択だった。感情も私情も抜きにして─── 違うか。快斗が待ってるから、迷い無く自分が身を投げる選択をしたのだから。


(快斗のあんなわがまま、初めてだな…でも、どうせならはっきりと口にしたってよかったのに)


 谷底を半分ほど落下して、ひじりの体が光り始める。これでひじりはゲームオーバー。大丈夫、怖くない。あとはコナンに任せたし、快斗が待っているから、怖くなどない。


(待ってますから、か…それってさぁ、快斗)



 死んでほしいって、ことだよね。



 薄れゆく意識の中そう呟いたひじりは、光にけぶる視界をゆっくりと閉ざした。






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