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 ひじりの回し蹴りは、確かにジャック・ザ・リッパーを捉えるかと思われた。
 しかし、彼は紙一重でそれを躱し、空振りしたひじりの腕を掴むと、その細い体の鳩尾に容赦のない膝蹴りを叩き込んで吹っ飛ばした。
 ただでさえハンデが課せられ、途中休んだと言っても体力が削られていたひじりだ。身体能力も落ちた今、何が起こったのかさえ理解できず、そしてようやく理解したときには、白刃が彼女の首元へと迫っていた。





□ ベイカー街の亡霊 17 □





ひじりさんに手ぇ出してんじゃねーよ、てめぇ!!!」

「!」



 弾丸の如く飛び出した快斗が我を忘れてジャック・ザ・リッパーに拳を叩き込もうとし、彼はそれを何とか避けると、動けずにいるひじりを一瞥して快斗と向かい合った。ゲームオーバーになりはしなかったものの、ひじりがもう戦えないばかりか立ち上がることすらできないことを悟ったのだろう。


「この女が、そんなに大事か」

「その人を殺してみろ。…オレがてめぇを殺すぞ」


 じわり、快斗の雰囲気が一変する。怒気を通り越した殺気にコナンが目を見開き、秀樹が後退り、ひじりが虚ろな目を向けた。ジャック・ザ・リッパーはそんな快斗を見て面白いとばかりに笑みを深め、くつくつと喉で笑う。


「いいねぇ。お前とは、あの人のもとで出会ってればいい友達になれたよ」

「ハッ。誰彼構わず殺すような奴と、誰が友達になんかなるかよ」


 僅か17歳の少年がするにはあまりにも鋭すぎる目を向ける快斗に、後ろからおずおずとコナンが「…快斗兄ちゃん?」と声をかける。それを受けて、ふいに快斗は動きを止め、ゆっくりと深呼吸をして徐々に感情を落ち着けていった。
 おや、とジャック・ザ・リッパーが目を瞬かせる。つまらないとでも言いたげに唇を歪めた。しかし、すぐにその唇に笑みが刷かれる。


「…成程。ここにいる連中全員殺せば、お前はこちら側へ堕ちてくるのかな?」

「……」


 快斗はジャック・ザ・リッパーの言葉に無言を返し、努めてゆっくりと呼吸を繰り返す。挑発に乗ってはいけない。私情を、感情を挟んではいけない。
 伏せたままゆらゆらと光を揺らすひじりの目を見て、快斗は思考を走らせた。


(どうする。正面切って戦うのは、今のオレじゃ無理だ。けど時間がない)


 逡巡する快斗を嘲るように、ジャック・ザ・リッパーはついと視線を滑らせ、足元のコナンに向けて笑みを深めた。そして、ナイフを振りかざしてコナンに迫る。先程の言葉のように、本当に快斗以外の全員を殺してしまうつもりなのか。先に動けずにいるひじりと蘭を狙わないのは、おそらく全員の動きを止めて嬲り殺すためだろう。
 コナンが凶刃を避けるが、彼は猛追の手を止めない。快斗が手出しをしようにもあっさりと躱されてしまう上にナイフが向けられ、自分の身も危なかった。
 時間がない。早くケリをつけなければ。その焦りが、快斗に僅かな隙を生んでしまった。


「お前はそこで見てろ!」

「ぐっ!」

「快斗兄ちゃん!」


 強烈な殴打を胸に食らい、肺にダメージを食らった快斗は屋根に背中を叩きつけた。
 ひじり同様、快斗にもハンデは課せられている。男女の差で体力はひじりよりあったものの、本物の殺し屋相手に奮闘して、体力など殆ど残っていない。
 げひゅげひゅと鈍く変な咳をしながら何とか体を起こすが、すぐにがくりと腕がくずおれた。


「おい兄ちゃん!しっかりしろよ!」

「っせ…分ぁーって、ら…」


 さらに上がっていく列車のスピードに、癖毛がなびいて暴れる。
 秀樹の腕を振り払うように気力だけで何とか上体を起こした快斗は、倒れ込んだ快斗に気を取られてしまい、ジャック・ザ・リッパーに首を掴まれて屋根に押さえつけられたコナンに目を瞠った。


「コナン!」

「あの野郎…!お前、メガネを放せーっ!」


 勇敢にも秀樹が叫んでジャック・ザ・リッパーに立ち向かうが、秀樹は子供でろくな格闘経験などあるはずがない。ジャック・ザ・リッパーは簡単に秀樹の腹に蹴りを入れて後ろへ弾き飛ばし、秀樹はあわや列車から落ちかけたが何とか屋根の突起にしがみついて落ちることを逃れた。


(どうする─── どうする!)


 快斗は荒い息をつきながら頭をフル回転させる。
 どうすればジャック・ザ・リッパーの隙を突ける。どうすればコナンを助けられる。どうすれば、この状況を打破し、ジャック・ザ・リッパーを倒して、全員で現実世界に帰ることができる?

 どうすれば───



 ──── 俺ぁもう命は助けねぇけど、別の助けが欲しかったら呼べよ!



 脳裏に、男の声が蘇る。
 名前も知らない、赤いジャケットを着た男。意味深なことばかりを言い残したが、一度、ひじりと快斗を助けてくれた。


(そうだ…まだ、手はある…)


 諦めるな。まだ最後の手札は、この手に残っている。だが、それを切ることができるのはひじりだけ。
 快斗はもう一度ひじりを見た。白い指で列車の屋根を力無く引っ掻き、ぼんやりとコナンを見ていた目が、快斗を向く。思わず笑みが浮かんだ。

 大丈夫、大丈夫。あなたは助ける。あなたのために、オレは命だって懸けられる。
 比喩ではない。正真正銘、あなたのために、オレは何度だって死のう。喜んでその道を選ぼう。
 間違っていることくらい分かっている。愚かしいことだと自覚している。
 けれどオレは、もう、あなたのその目がオレを見ないことに、耐えられないんだ。


(あなたと一緒に死ねるのなら、オレはたぶん、ここで諦めたかもしれない)


 だが、ひじりは以前言った。まだ生きたいと。あの日撮った、10年後を予想した写真のように、本当の10年後の写真を2人で並んで撮りたいと。
 だから、生きなければ。生きて、現実世界に帰らなければ。



 そのために、あなたのために─── オレは喜んで、死のう。



 ゆらりと快斗が立ち上がる。ジャック・ザ・リッパーが快斗に気づいて視線を向け、にぃと冷酷な笑みを深めた。


「見ていろ。今から1人、ガキが死ぬ」


 ジャック・ザ・リッパーから感じる、冷酷な殺意。それは以前相対した、ひじりを“人形”として傍に置いていたジンの放つそれと似ている。ふとそんなことを思って、躊躇いなくコナンへ振り下ろされた白刃へ向かって、快斗は駆け出した。


 トン、と軽い衝撃。


 何だ、意外とこんなものか。それともここがゲームだから、だろう。
 目の前には瞠目するジャック・ザ・リッパー。見下ろすと、自分の胸に突き立てられたナイフと、背に庇ったコナンが目を見開いていた。さらに視線を滑らせて前方へやり、殺人鬼越しに愛する人を見つめる。ひじりの目が、限界まで見開かれていた。


「…ひじりさん。大丈夫ですよ、オレ達にはまだ、命を・・助けて・・・くれは・・・しない・・・けど・・別の・・助けは・・・ある・・でしょう・・・・?」


 ほら、気づいて。思い出して。
 この状況で、快斗はひじりだけを見ながらにっこりと笑ってみせた。
 ジャック・ザ・リッパーがナイフを抜き、驚きからかコナンが解放され、快斗がよろけて膝をつく。それでも尚、快斗はただ1人の女を優しげな目で見つめ続けた。


「先にいってます。待ってるから、ひじりさん」


 快斗の体が虹色に光りだす。見開かれた黒曜の瞳が、大きく揺れた。
 今までに消えていった者達同様、足元から光の輪が立ち昇って快斗の体を消していく。
 その空を思わす青い目の奥に滲むものをひじりに向け続けたまま、快斗は音も無く消えた。






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