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 現実世界にて、推理を披露して樫村殺害の犯人、シンドラーを追い詰めていく優作は、ちらりとゲームの中─── ひじり達の声が響いてくるスピーカーに視線を流した。
 どうやら焦点はコナンを中心としていて、あるいは何かしらの意図が働いているのか、度々ひじりと快斗の声は途切れていた。先程もあわやゲームオーバーかと思いかけたが、どうやら無事合流したようだった。


ひじり君…それに、黒羽快斗君)


 の、息子。今のコナンのように、かつて・・・自分も・・・また・・追って・・・いた・・初代・・怪盗キッド・・・・・の息子。
 何の因果がひじりと快斗を結んだのか、2人は出会い、愛し合い、そして傍に在ることを互いに望み、今に至る。
 己のツテなどを使って調べた情報を繋ぎ合わせ推理した結果、現在の怪盗キッドが黒羽快斗であると断言するに難くはなく、また、彼が真実怪盗キッドであろうと何であろうと関係ない。同じく、ひじりが何者であろうとも関係ない。
 ただ、どうか唯一の息子と、息子の可愛い幼馴染と共に縁深き2人が帰って来ることを、優作は強く願っていた。





□ ベイカー街の亡霊 16 □





 いつの間に屋根へと移動したのかは分からないが、とにかくジャック・ザ・リッパーは蘭と共にそこにいて、しかも蘭の両手両足を縛ったロープで2人が繋がっている。つまり、彼が列車から落ちれば、蘭も落ちてしまうということ。


「…蘭を放して。今更、4人相手で逃げられるとでも思っているの?」


 コナン達に追いつき、一瞬で状況を理解したひじりが厳しさを宿した目でジャック・ザ・リッパーを睨むが、彼は薄く凄惨に笑うだけで、腰のホルダーに納めていたナイフを引き抜きその白刃を晒した。
 それにひじりと快斗は素早く身構える。しかし、ノアズ・アークに課せられたハンデが体を重くしていつものように動くことは叶わない。


「ジャック・ザ・リッパー、お前の望みは何だ?」

「望みだと…?」


 身構えながら快斗が問い、それに彼が問い返す。
 ひじりは蘭を奪い返す算段を立て何度も脳内でシミュレーションするが、やはり難しい。たとえ隙を突いて蘭の傍に行けたとしても、ロープを切るすべがない。だが蘭をゲームオーバーにしてしまえば、列車ごとみんなまとめて終わりだ。



 ─── それとも、賭けてみるか。



 ふいに、頭の中でひやりとした問いがかかる。
 賭けてみるか。蘭を犠牲にしてジャック・ザ・リッパーを列車から落とし、ハンデが課せられた状態で、列車の連結を残る4人で協力して外すことを。
 確実ではない。けれどこのまま手もなく戦うくらいなら。
 万が一の可能性に、賭けてみるか。


(蘭を─── 犠牲に)


 すぅと脳内が恐ろしいほどに冷えていく。
 深みを増した黒曜の目で不安げな顔をする蘭を捉えた。


「母親を殺して、お前は長年の恨みを晴らしたんだろうが!そんなお前は今、いったい何を望んでんだ!?」


 どこか遠くで快斗の怒声のような問いを耳に入れながら、ひじりはゆっくりと蘭からジャック・ザ・リッパーへと視線を移した。
 彼は笑みを深め、ぎらぎらと不穏に輝く目を快斗に向けて答える。


「生き続けることだ!俺に流れている凶悪な血を、ノアの方舟に乗せて次の世代へとな!!」


 ノアの方舟。ノアズ・アーク。
 殺人鬼たるその凶悪な血を、更なる時代へ。

 高笑いしたジャック・ザ・リッパーは、瞬間ナイフを振りかぶって迫って来た。それを4人はそれぞれ散って避ける。4つの標的の中、まず彼が選んだのは─── ひじり
 ナイフが煌めくのを受けて、その軌道を読み何とか躱す。しかし、普段のキレが欠けたひじりは反撃することもままならない。さらに、ひじりへと振り下ろしかけたナイフは、次の瞬間、後ろに迫った快斗へと振り下ろされた。


「くそっ!」


 ステップを刻んで何とか快斗が避けるが、薄く袖が裂かれてしまう。
 ジャック・ザ・リッパーは猛攻をやめず、快斗に、ひじりに、そしてコナンに秀樹にと、次々と凶刃を振るった。
 いつ誰に向かうか判らない。蘭にも迂闊に近づけない。防戦一方で、さらに時間もかけられない。


(どうする。…どうする)


 ジャック・ザ・リッパーと蘭はロープで繋がっている。せめてそれを切ることができたなら。だが、こちらには何も武器はないし、奴がナイフを落とすこともないだろう。
 怪我を負えば即ゲームオーバー。どうする、とひじりはもう一度自問した。



 ─── 蘭を。



 ざわり、総毛立つ。
 賭けてみるか。このまま時間切れで全員ゲームオーバーになるか、それとも万が一かに賭けるか。
 冷静な自分がどうすると囁きかけてくる。


「逃げてばかりでは俺を捕まえられないぞ」


 不敵な笑みを浮かべ、ジャック・ザ・リッパーは隙なく佇む。そして、進行方向に背を向ける形で対峙する4人へ最悪の事実を告げた。


「あと10分で終着駅だ。運転士のいないこの列車はどうなるかな?」


 はっと誰もが息を呑む。あと10分。あまりに時間がない。
 列車が深い谷の前を通る。ジャック・ザ・リッパーを睨みつけるように見ていると、ふいに彼は、「もっとも、駅に突っ込む前にお前達はお陀仏のようだ」とせせら笑い、その意図を把握する前に嫌な予感を覚えたひじりは振り返り、迫るトンネルを見て叫んだ。


「伏せなさい!」

「!」



 ひじりの鋭い号令に従い、快斗、コナン、秀樹は屋根に伏せてトンネルにぶつかることを逃れた。
 トンネルを抜けるのはひじり達の方が速い。ならば、その一瞬の隙を突くしかない。そう判断し、列車がトンネルから抜けた瞬間、素早く立ち上がったひじりはジャック・ザ・リッパーへと駆け出した。


「おっと!どうするつもりだ!お嬢さんがどうなってもいいのかな!?」


 蘭を盾にするような言葉にしかし耳を貸さず、ひじりは彼のナイフを握る右手へと鋭い蹴りを繰り出した。
 だが、その一撃は彼が身を引いたことで空振る。ナイフの白刃が迫ったが、慌てることなく一足飛びで間合いを離れ、振り抜いた彼の懐へと再び突っ込んだ。ブーツの効力はなくとも、爪先に仕込んだ鉄板は健在である。右手を狙うと見せかけ、フェイントを入れたひじりはその顎へと爪先を叩き込んだ。


 ゴヅッ!!


「がっ!」

「やったか!?」



 ジャック・ザ・リッパーが呻いて数歩下がり、コナンが後ろで期待に叫ぶ。
 否、まだだ。ひじりは攻撃を食らいはしたが倒れなかった彼に内心で舌打ちする。しかし、彼の胴体はがら空きだ。ここでさらに攻撃を加え、ナイフを手放させれば。


「い、いっけー姉ちゃん!」


 かけられた秀樹の声に背中を押されたように駆け出す。
 一歩、二歩。大股で間合いに入り、まずは左足の回し蹴りを食らわせようと振りかぶったひじりは、


「ダメだひじりさん!!」


 快斗の焦燥の声と同時に、ジャック・ザ・リッパーの底の見えない闇を湛えた目を見た。
 同時に、世界が引っ繰り返る。気づけばひじりは列車の屋根を滑り、蘭の横へと転がっていた。


「…かはっ、…ぅ…」

ひじりさん!」


 いったい、何が起こった。何か衝撃を食らい、気づけばひじりは屋根に伏して、しかも呼吸がしにくい。加えてぶわりと鳩尾辺りが酷く痛み出し、そこを押さえながらひじりは苦悶に力無く眉をひそめた。
 ぶるぶると体が震えている。吐き気がやまず、冷や汗が滲み、視界が不明瞭だ。
 転がったまま傍に立った男を見上げる。ジャック・ザ・リッパーが、背筋を凍らせるような凄惨な目で見下ろしていた。






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