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コナンを庇って石膏像の下敷きになった哀。慌ててコナンが駆け寄り体を支えるが、その小さな体は、ゲームオーバーしていった者達同様虹色に光り始める。
「ダメよ工藤君…諦めちゃ。お助けキャラがいないんなら、私達にとってのホームズは、あなた」
劇場が揺れる中、哀が真っ直ぐにコナンの目を見て言う。息を呑むコナンに、哀は「あなたには、それだけの力がある」と続け、力無く笑った。
「ホームズに、解けない謎はないんでしょ?」
□ ベイカー街の亡霊 13 □
最後に、哀は傍に寄った
ひじりと快斗を見上げ、笑みを深める。
無表情が常の
ひじりの顔が微かに歪み、深い黒曜の目には焦燥と動揺が滲んでいる。哀、と無意識かその唇が掠れた音を出して動いた。
「…あなたもそんな顔、できたのね」
快斗君、
ひじりを頼んだわよ。そう言い残し、
ひじりが伸ばした手が触れる前に哀もまた、光に包まれて消えた。
「……」
これで残るは、5人。もうあとがない。
空を切った手を呆然と見つめていた
ひじりは、絡んだ指に力がこめられると、鋭く息を吸って「行こう」とすぐさま踵を返した。
コナンを先に行かせて快斗と共に後ろを走る。劇場はどんどん崩れ、しかも火の手まで上がり始めていた。
「出口だ!」
コナンが叫び、快斗と
ひじりもそれに続こうとして、突如快斗が叫ぶ。
「危ねぇ!」
「!」
ドォン!!
ふいに目の前に大きな岩─── 上階の廊下部分が落ちてきて、
ひじりの手を引いた快斗は危うく2人まとめて潰れる前に一歩後ろへ下がった。何とか岩に潰されずに済んで助かったが、通路が塞がれて通れなくなってしまって2人は足を止める。岩の向こうからコナンの声が聞こえてきた。
「おい
ひじり、黒羽!大丈夫か!?」
「ああ、大丈夫だ!別の出口を探すから、お前は先に行ってろ!」
「けど…!」
「いいから行け!ぐずぐずしてっと、まとめてゲームオーバーになっちまうぞ!」
「……!」
快斗の怒声に背中を押され、くそっ!と短く吐き捨てたコナンの去って行く足音が遠くなる。それを聞いて、2人はそっとため息を吐き出した。さて、これからどうする。
別の出口を探すと快斗は言ったが、ほとんどの道は天井が崩れて塞がれているだろう。劇場内は広く、完全に構造を把握していない2人にとって、まさしく絶体絶命とも言えた。
だが、ここに留まっているわけにはいかない。死なないために、動かなければ。
「左か、右か…どっちに賭けます?」
道は2つ。左と右。引き返す時間はない。間違えれば終わりだ。
2人は顔を見合わせた。ぎゅっと絡めた手を強く握り合う。そして、ひとつの道へ顔を向けようとして───
「そっちじゃねぇよ、後ろだ」
ふいに、何度か聞いた声がかかった。
「!」
「あなたは…」
「早く来な。死にたかねーだろ?」
いつの間にか後ろにいた赤いジャケットの男は、今までにまとっていた飄々とした雰囲気を消し、真剣な顔で2人を見て踵を返した。
誰なのか、なぜクラブの裏口のところで一瞬にして消えることができたのか、今どうやって現れたのか、なぜ助けてくれるのか、
ひじりは男に訊きたいことがたくさんある。
そもそも信じていいのか。誰かも分からない、意味深な言葉だけを残していった、今までにたった二度しか顔を合わせていない男を。
ひじりと快斗は一瞬視線を合わせ、同時に走り出した。男の後ろを続く。軽く振り返った男がついと目を細めて笑みを浮かべ、再び前を向いた。
「信じるのかい?俺を」
「あなたは確かに不審人物ではありますが、私達を惑わしたり、危害を加えたりしたことはありませんでしたから」
「オレ達は、あんたを信じてみようと決めた自分自身に賭けているんだ」
男はふんと鼻を鳴らして上機嫌に笑う。
元来た道を少し戻って脇に逸れ、階段を上り、少し廊下を走ってまた降りて。どこを通っているのかは判らない通路をひたすら走る。
翻る赤いジャケットの背中に、
ひじりは時折落ちてくる瓦礫を避けながら、ぽつりと何度目か分からない問いを投げた。
「…あなたは、誰ですか」
ひじりの関係者の関係者。あまりに曖昧な答えを放ってきた男は、しかし今度は別の言葉を口にした。
「─── 俺はあくまでお助けキャラさ。フェアリー限定のな。けど、命を助けるのに二度はないぜ?」
「え…」
お助けキャラ。フェアリー限定。どういう意味だ。
フェアリーというのは、おそらく
ひじりを指すのだろう。そして命を助けることは、二度とない。
それだけが何とか判ったものの、男はそれ以上意味深な笑みを浮かべるだけで何も言わず、ふいに足を止めて振り返ると、懐から何かボタンのようなものを取り出して躊躇いなく押した。
ドン!!
「なっ!?」
快斗が驚愕の声を上げる。男と2人との間、通路の壁が突如軽い爆発を起こしたからだ。
もうもうと舞う土埃。壁と爆発の余波を受けた天井ががらがらと音を立てて崩れる。瓦礫が山をなして通路を塞ぎ、その向こうから軽い男の声が聞こえた。
「そんじゃなーまた会おうぜ!フェアリー、俺ぁもう命は助けねぇけど、別の助けが欲しかったら呼べよ!特別に俺様がお前さんに協力してやるぜー!まぁ、条件はあるけどな!!」
それきり男の声は途切れ、後に残ったのは、ぽかんと口を開けて足を止めてしまった
ひじりと快斗の2人だけ。
助けてくれはしたが意味深なことを言いたいだけ言って、男は姿を消した。
「…あ、外だ」
「…本当だ」
呆然としたまま、壁にあいた穴から劇場の庭が見えて間抜けな声を上げる。どうやらここは1階のようだ。
2人は何とか気を取り直し、あの男のことが気になるものの、助けにはなっても敵にはならないと判断して一旦考えることをやめ、穴から外へと脱出した。
「とにかく、急いでコナン達と合流しよう」
「ジャック・ザ・リッパーも、アイリーンの命を狙ってまた襲いに来るかもしれませんしね」
音を立てて崩れていく劇場を背に2人は走り出す。道路へ出ると、遠くから警官の笛の音が聞こえてそちらへ向かった。2人の手は繋がれたままで、少し遅れる
ひじりを快斗が半ば引っ張っている。
「ジャック・ザ・リッパーだ!」
「ジャック・ザ・リッパーが出たぞ!」
どこからともなくそんな声が聞こえ、ざわめきから奴が逃げて行った方を推測して走る。
きっとコナン達もジャック・ザ・リッパーを追っている。だから奴を追った方が合流するための一番の近道だ。奴を少女と少年達が追っている、とも聞こえたからまず間違いないだろう。
行き先は─── チャリング・クロス駅。
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