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 失礼します、とコナンがひと声かけてドアを開ける。
 室内に入れば控室と言うには随分と豪華な内装が目に入り、流石王室プリマドンナとひじりが感心していると、こちらに背を向けるように据えられていたイスからおもむろに1人の女性が立ち上がった。
 裾の長い桃色のドレスに、美しい長い髪。振り返ったその顔は、やはり新一の母で優作の妻、有希子のものだった。


「新一のお母さん!」


 蘭がその顔を見て思わず声を上げる。すると彼女─── アイリーンは、「失礼ね、私はまだ独身よ」と目を眇めて腰に手を当てた。





□ ベイカー街の亡霊 12 □





 正確に言うならば「離婚して独身に戻った」が正しく、妙齢の女性らしく美しくも悪戯げな笑みを浮かべるアイリーンへ、コナンがホームズからと花束を渡す。
 ありがとうと礼を言って受け取ったアイリーンにホームズさんはどちらに?と問われ、ひじりがホームズは所用で窺えないのだと答えた。事件ね、と微笑まれて頷く。すると眉を下げて残念ねぇと呟くアイリーン。そんな彼女には申し訳ないが、重ねてもうひとつ知らせなければならないことがある。


「今夜の舞台は中止してください!」

「え?」


 コナンの突然の言葉に、アイリーンが目を瞬いて見下ろす。ひじりが無表情に僅かな険しさをのせて言葉を続けた。


「ホームズ探偵の宿敵である、モリアーティ教授があなたに殺し屋を差し向けました。ジャック・ザ・リッパーという名に、聞き覚えは?」

「それは、あるけれど…でも、何のために私を?」

「きっとあなたを喪ったときのホームズ探偵の悲しむ顔を、見たいからでしょう」


 淡々と告げるひじりにアイリーンは目を瞠り、だがすぐに「私も見てみたいわ」と穏やかな笑みを浮かべた。ホームズがどのくらい悲しんでくれるのかを見てみたい、と。虚勢でも見栄でもなく、心から。
 その豪胆さに、流石、かのホームズが惚れるだけのことはある女性かと感心してしまった。


「いいんですか!?ジャック・ザ・リッパーの5人目の犠牲者になっても!」

「皆さんが護ってくれるんでしょう?ホームズさんの代わりに」


 蘭が説得しようと声を荒げるが、アイリーンに笑みを変えないまま言い切られ、呆気に取られて二の句が継げない。
 したたかと言うか何と言うか。肝が据わっている。少しひじりさんに似てんなー、と快斗が内心で呟いたことをひじりは知らない。


「…まぁ、仕方がないね」


 アイリーンは決して舞台を中止しないだろうし、そんな彼女を護らないという選択肢もない。
 ひじりがぽつりと呟き、誰も何も言わないのを見て、せめて護衛のために舞台の袖に待機させてくれるよう頼んだ。「もちろんいいわよ」とアイリーンは快く頷き、次いでよろしくねと可愛らしく笑った。





 舞台が始まった。アイリーンの舞台は、こんなときでなければ客席でゆっくり聴きたいほど素晴らしいものだった。スポットライトに照らされた彼女は輝かんばかりに美しく、そのひとつひとつの所作が研鑽され人々を魅了する。
 そういえば、有希子も歌は上手かった。なのにどうして息子の新一はあそこまで壊滅的音痴なのだろう。似た声をしている快斗は普通に聴けるほど上手いのに。思わずひじりの思考が逸れる。

 コナン達が舞台上のアイリーンを、ひじりと快斗は舞台袖周辺や頭上を見張る。
 一応開演前に劇場内を簡単に見回りはしたが、怪しい影や不審物は見当たらなかった。とは言え、念入りに探したわけではない。人の出入りは多い上に、道具類は無数にある。それらをいちいちチェックしていては夜が明ける。だから正直なところ、何が起ころうと不思議はない。


「快斗、ジャック・ザ・リッパーはどのタイミングで狙ってくると思う?」

「……オレなら、まず標的から衆人の目を逸らすために一計を講じます」


 そう、たとえば照明を落としたり、別の場所で騒ぎを起こしたり。ならばやはり、注目すべきはアイリーンよりも、その周辺。
 さらに2人が気を張った、そのとき。


 ドン! ドドォ…ン!!


 突如どこからか大きな爆発音が響き、同時に劇場が大きく揺れる。体が重いこともあり体勢を崩したひじりは、しかし何とか踏ん張ると、すぐさまアイリーンへと視線を滑らせた。
 観客が色めき立ってその殆どが立ち上がり辺りを見渡す。驚愕、困惑、悲鳴、怒号、様々な声が飛び交う。しかし再び爆発音と共に劇場が揺れ、慌てて観客達は状況が判らぬまま、次々と劇場の外へと逃げ出して行った。


「……!」

「っと」


 二度目の揺れにぐらりとひじりの体が傾ぐ。それを快斗が支え、2人は床に膝をついた。
 この程度、ハンデさえなければこんな無様な真似にはならないというのに。浮かんだ小さな苛立ちを、しかしひじりはすぐに振り払う。


「アイリーンは…」

「あ!」


 アイリーンを振り返ると、何と頭上のライトが大きく揺れ、鎖が千切れていくつか落ちてきていたところだった。
 危ない!と大声を上げて進也と晃が飛び出し、落ちてくるライトに気づいて悲鳴を上げるアイリーンを彼らが突き飛ばす。間一髪、アイリーンは助かったが進也と晃の2人はライトをもろに食らって下敷きになってしまった。
 大きな土埃が立ち、コナンと蘭、秀樹が駆け寄る。ひじりと快斗も立ち上がるとそれに続いた。

 ライトの下敷きになった進也と晃だったが、彼らには傷ひとつなく、しかしその体が虹色の光を帯びる。ゲームオーバーだ。彼らはここでリタイアとなる。
 2人はお互いに自身の体を見て、悔しそうな笑みを浮かべた。そんな2人の前に、助けられたアイリーンが近寄り笑みを浮かべて膝をついた。


「ありがとう。お陰で助かったわ」


 心からの感謝の言葉に、照れた笑みを浮かべた2人はお互い顔を見合わせた。


「人に感謝されたのって、初めてだな…」

「い、いいもんだね」


 その言葉に、まったくどんな子供なんだかと一瞬呆れたひじりだったが、アイリーンと同じように彼らの傍に膝をついて頭を撫でた。
 驚いて見上げてくる2人に細めた目許をやわらげ、ゆっくりと髪を梳く。進也と晃はまた照れたような笑みを浮かべると、すぐに残った最後の友人、秀樹を振り仰いだ。


「諸星。後は頼んだぜ」

「任しとけ!」


 進也に、はっきりと秀樹が答える。
 ゲームオーバーとなった2人の体は光に包まれ、やがて消えた。
 ひじりの手から、撫でていた2人の感触が消える。体温も、そこにいたという事実も。跡形もなく。


「……」


 ぎちり。急速にぬくもりを失っていく手の平を、音が鳴るほど強く握り締める。
 するとその手にそっと手の平が重なり、見上げると真剣な顔をした快斗がいて、ひじりと快斗は無言で見つめ合い、やがてひじりが手を開き快斗の指と絡めて立ち上がった。
 爆破はまだ続いている。一刻も早くここから逃げ出さなければ、全員まとめてゲームオーバーだ。アイリーンを助けた進也と晃の犠牲も、無駄になる。


「行くぞ!」


 快斗の号令に、全員が従って出口へと駆け出す。
 アイリーンと蘭を先に行かせて続き、舞台袖を抜けて出口に向かっている途中、ひじりと快斗の後ろにいたはずのコナンが出口を指差して少し遅れていた哀を急かした。思わず2人が振り返るとほぼ同時、コナンの後ろの石膏像がぐらりと大きく揺れ、それに気づいた快斗とひじり、そして哀が叫んだ。


「新一、後ろ!」

「避けろ工藤!」

「危ない!!」


 コナンが気づいて避けるより先に、哀がコナンへ飛びかかって突き飛ばす。
 転がったコナンと、倒れる哀。ひじりと快斗は異口同音に哀を呼んで駆け寄る。しかし、2人の目には、はっきりと石膏像が哀を潰したのが見えていた。
 ─── 間に合わなかった。


「哀…!」


 また、うしなう。






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