144
快斗の言葉と
ひじりの無言の同意に、モリアーティはさらに笑みを深め、しかし何も言わず2人から視線を外してコナンに「幸運を祈る」と軽く指を振って馬車へ乗り込んだ。
「…3年後。ライヘンバッハの滝に、ご注意を」
コナンの唐突な忠告に、訝しげにモリアーティが振り返る。しかしコナンは笑うだけでそれ以上は口にせず、モリアーティも何も返すことなく席について馬車を発進させた。
□ ベイカー街の亡霊 11 □
3年後のライヘンバッハの滝、というのは、ホームズと対決するときのことらしい。
モリアーティとホームズはそこで2人共滝壺に落ちてしまい、ホームズは後で奇跡的に生還するらしいが、モリアーティはそこで亡くなったようだと。
それならば、ホームズオタクのコナンはなぜわざわざ注意してやったのか。コナンも自身を不思議がり、ホームズと同じくらいあの悪党を気に入ってるんだろうな、と自答していた。
「…それにしてもまぁ、あの悪党にスカウトされちゃうなんて、
ひじり姉ちゃんも快斗兄ちゃんも何者?」
「オレはただの高校生だっつーの」
「普通でないことは自覚してるけどね、私は」
「オレは
ひじりさんが何であろうとですね…!」
「分かってるよ快斗。そんなあなただから私は…」
「あーもういいもういい。勝手にやってろオメーら」
誤魔化すつもりはなかったがコナンは呆れたような顔をして流し、真面目度100%だった2人は釈然としないまま顔を見合わせた。
和んだ空気に蘭が笑みをもらす。その中で、おもむろに秀樹がコナンへと声をかけた。
「…なぁ、メガネ」
「ん?」
「悪かったな…オレ達のせいで、5人もゲームオーバーになっちまって…」
そういえばそうだった。だが、過ぎたことは悔やんでも仕方がない。これからどうするかだ。あの生意気すぎる少年がそう反省しているだけ、成長したことでもあるし。
ひじりは秀樹と進也に手を伸ばした。引っ叩かれると思ったのか身を竦めた2人だったが、優しく撫でられ、ぽんぽんと軽く叩かれると目を見開いて
ひじりを見上げる。
「ノアズ・アークは1人でもゴールできればいいと言ってたからね。これから、ちゃんと協力してもらうよ?」
「大丈夫だって。さっきみたいなへたな真似さえしなきゃ、ちゃんとゴールできる」
目許をやわらかくする
ひじりと、秀樹と進也の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回しながら笑う快斗に、2人は力強い笑みをこぼす。
2人の気も少しは晴れたところで、長くここに留まっている理由もないため移動し、ビッグ・ベン前で朝を待つことにして、
ひじりと快斗は短い休息を取ることにした。
当然のように疲労感はばっちりあることに不満を抱きながら、壁に背中をつけてお互い寄りかかる。
ひじりの隣に蘭が座って、その隣にコナン。そしてコナンの隣に哀が腰を下ろした。
するとちらちらと少年達の視線が送られ、やれやれと苦笑した快斗があいた隣を軽く叩いた。ぱっと笑みを見せた少年達がすぐに横に座る。もそもそと居住まいを正し、秀樹がふと問いかけてきた。
「…なぁ、その。兄ちゃんと姉ちゃんは、付き合って…んのか?」
「ん?まぁな。いくら綺麗な人だからって、狙ったりすんなよ?それと、たぶんオメーら、現実に帰ったらもっかい説教だろうな。このひとはそんなに甘くねーし」
「げっ!」
秀樹、進也、晃の顔が引き攣る。現実世界で食らった言葉が地味に効いていたらしい。まぁオバサンと呼ばなくなったし、今回で少しは成長しているだろうし、これからゴールするまできちんと協力してくれたならむしろ褒めて撫でくり回すくらいはしそうだが。
しかしそれを少年達に教える気はさらさらない。
ひじりをオバサンと呼んだことを快斗は根に持っているのだ。
それから、然程時間が経たずに朝がきた。朝日が昇ると同時にコナンは動き出し、どこかへ行ってしまった。
ひじりは目を覚ましてコナンの帰りを待つことにして、夜が明けるまで起きて見張りをしてくれた快斗を膝枕で寝かせることにした。すよすよと眠るあどけない顔に目許をやわらげて癖毛を撫でる。
ひじりは少しだけ、勝手に動き出したコナンに感謝した。
コナンが戻って来たのは、それから暫くしてからだった。その頃には快斗も起きていて、
ひじりに膝枕してもらっていたことに気づいて顔を赤くしたり少年達にからかわれたりしていたが、コナンが戻って来たことによってじゃれ合いをやめる。
蘭にどこへ行っていたのかを訊かれて「街を探検に」と答えたが、決してそれが理由でないことくらい分かっている。
「またジャック・ザ・リッパーが出たよー!今度は犠牲者が2人もー!」
「お、タイミングいいな。もらってくる」
新聞を抱えて売り歩く少年に、快斗が歩み寄って一部もらうために声をかける。
しかしここはロンドン。ドルすら持っていなかったが、「はい80円」とあっさり言われて便利なものだと感心した。
新聞を買い、早速開いて広告欄を見る。指でなぞりながらひとつひとつ見て行くと、シンプルなそれが目についた。
「これだ!」
「…『今宵、オペラ劇場舞台の掃除をされたし。 MよりJへ』」
ひじりが読み上げるその文は、間違いなくモリアーティが載せたものだろう。
MからJへ。モリアーティからジャック・ザ・リッパーへ。オペラ劇場の舞台を掃除、という意味の秘するところは、舞台に登場する役者を殺害しろということだろう。
ならば、今夜行われるオペラ劇場の舞台は。快斗が新聞をめくってみると、ひとつ見つけ、凱旋公演と銘打たれたそれを読み上げる。
「『凱旋公演! ワルシャワ王室オペラのプリマドンナ アイリーン・アドラー』」
「…なかなかの人選で。とんだ根っからの悪党だね、彼は」
「ああ」
ひじりの感心混じりの言葉に、コナンが苦く頷く。秀樹がアイリーン・アドラーって誰なんだと訊き、それに答えたのはやはり蘭だった。
アイリーン・アドラー。ホームズが生涯唯一愛した女性。モリアーティは、彼女を殺害のターゲットに選んだ。
とにかく、今度は夜まで待たなければならない。
しかしここはゲームの世界。時間はすぐに過ぎ、気づけば陽が暮れ、時計の針も15分から8分にまで減っていた。それはつまり、残ったゲーム参加者が、このステージにしかいないということ。他のステージは全滅だ。
この8人に残る42人全ての命がかかっている。予断は許されない。
一同はオペラ劇場を見上げた。ここでジャック・ザ・リッパーを捕まえるか、自分達が全滅するか。それぞれ覚悟を決めて劇場へと足を踏み入れた。
「…そういえばオレ、オペラ劇場とか初めて入ったな」
「私も」
劇場内は人で溢れていた。ワルシャワ王室オペラのプリマドンナ、と銘打たれるくらいなので、人の入りは多いだろう。観客も、役者を始めとしたスタッフも。
ひじりは用意した花束をコナンに持たせ、最後尾を快斗と共に歩きながら辺りに視線を走らせる。一同が奥の方へと進んでいると、ふいに劇場スタッフの男が立ちはだかった。
「コラ!ここから先は関係者以外立ち入り禁止だ!」
当然と言えば当然だが、はいそうですかと引き下がるわけにもいかない。快斗が前に進み出て用意していた台詞を口にする。
「いえ。実は僕達、アイリーンさんの知り合いなんです。…ホームズさんの代理で、激励を」
「おお、彼女の知り合いかね。それもホームズ探偵の代理だと」
「はい!控室はどこですか?」
「それなら、一番奥でポスターが貼ってある部屋だよ」
コナンが子供らしく花束を掲げて問うと、男は疑うことなく奥の方を示した。
子供がいることもあってか思った以上にすんなりと通してくれ、セキュリティの甘さにこれでいいのかと思うが、かのホームズ最愛の人に迂闊に手出しをする人間はいないだろう。それこそ、とんだ馬鹿か、モリアーティのような悪党以外は。
男に頭を下げ、控室へ向かう。
控室のドアには言われた通りポスターが貼られていて、すぐに判った。
「ここね。どんな人だろ、わくわくしちゃう」
蘭はそう言うが、
ひじりは予想がついている。
優作が作ったキャラクターで、自分に似せたホームズの愛する人、となれば決まっているようなものだ。
ひじりはノックをして、中から返ってきた女性の声に、やっぱりねと内心で呟いた。
← top →