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モランはワインを奪ったコナンに銃を向けたが、ボクを撃ったらワインが割れちゃうよ、という脅しの言葉に僅かに動揺を見せた。
ひじりと快斗は知らなかったが、どうやらあのワイン、モラン達がカードをしていたときのテーブルの空席が関係してあるようだ。
特別に装飾されたイス。そこに座る人物のために用意されたグラスとワイン。それをヒントに推理してみれば、モリアーティ教授しかいない、とのこと。
「成程なぁ…」
「……」
快斗が吐息のような呟きをもらし、
ひじりが無言を返す。疲れ切った2人は、もう戦闘はありませんようにと祈るばかりだった。
□ ベイカー街の亡霊 10 □
モランはコナンの推理はハズレだと言ったが、動揺は隠しきれていない。コナンもそれを分かっていて、「じゃあ撃てば?」と挑発する。しかし撃てば、モリアーティのワインは割れる。割れてしまえばどうなるかは、モランが一番よく知っているだろう。
しかし撃たないとも限らない。快斗は大きな息をつくと、体勢を整えてモランが撃った瞬間飛び込めるように姿勢を低くした。
モランの指が引き金にかかる。撃つか否か─── そのとき、ふいに店の扉が開き、カランと場違いのような軽い音が鳴った。突然の闖入者に、モランがそちらに気を引かれて訝しげに振り返る。コナンも快斗も、全員が顔を向けた。
「モリアーティ様が、皆さんにお会いしたいと申しております」
現れたのは、両手を前で合わせ、軽く頭を下げた老人。その口から飛び出た人物の名前に一同が驚き、蘭が「モリアーティ教授が?」と呟きをこぼした。
「…こりゃ、何とかなりそうだ」
ぽつりと快斗が呟き、老人の言葉を聞いていた
ひじりもため息をつきながら立ち上がる。
帽子のつばに指をかけ、馬車でお待ちでございますと用件だけを告げて店の外へ促す老人の背に、モランの「お待ちください!」という声がかかった。
(…『お待ちください』、ね)
モランが果たして、いち下人に敬語を使うだろうか。
快斗に手を引かれながら蘭達のところへ戻ると、食い下がろうとしたモランに、下人にあるまじき鋭い視線を向けた老人が厳かに口を開く。
「モリアーティ様に逆らうつもりですか?」
「……!」
それ以上、モランは何も言うことなく目を逸らして俯く。
他の男達も下がり、コナンがワインを手に老人について行くのを見て、
ひじりは行こうと蘭達を促し快斗と共に店の外へと出た。
店の外には、一台の馬車。そこに腕を組んで座る、1人の男。年嵩だが、御者よりも少しだけ若い。
「皆様を、お連れしました」
「…ご苦労。さてボウヤ。そのワインをいただこう」
「はい」
コナンがワインを渡し、受け取った老人が馬車の後ろへと置きに行く。快斗は馬車の席に座る男をじっと見て、ふぅんと鼻を鳴らす。
「快斗?」
「…あの人、モリアーティ教授じゃない」
口の動きが、声とは少しズレてます。小声で教えてくれた快斗に、
ひじりもじっと見てみるが、残念なことにそこまで分からない。快斗はキッド業をしているから気づいたのだろう。目が良い。
すると、同じくコナンも訝ったのか、「ねぇ、おじさんがモリアーティ教授?」と問いかけ、男はいかにもと即答する。だがコナンはボク達を試してるんだねと言い、男に「どういう意味かな?」と威圧されるが、コナンはひるむことなく笑みすら浮かべた。
「もうお芝居はやめたら?おじさんはモリアーティ教授じゃないんでしょ?」
「な、何を言うのコナン君?」
「いや、コナンの言う通りだ」
蘭が驚き、しかし快斗がコナンに同意する。コナンは快斗を振り返って頷くと、不敵な笑みを浮かべ、傍に立つ老人を指差した。
「だって、本物のモリアーティ教授は…ここにいるもの!」
コナンの指摘に、蘭と秀樹が驚きの声を上げる。
声は全て腹話術で喋ってたんだよね、と続けると、耐えきれないとばかりに笑いをこぼした老人は帽子に手をかけ外した。「そこまで見抜かれていたとは」と言う通り、やはり老人がモリアーティなのだろう。
帽子の下からあらわになった、鋭い目。凶悪な光を宿す老人は快斗を一瞥し、コナンを見下ろして「なぜ分かった?」と問いかけた。
「さっきモラン大佐が、おじさんに『お待ちください』って言ってたよ」
「モラン大佐が敬語を使うのは、モリアーティ教授にだけ」
コナンに快斗が続け、そっかと蘭が頷く。だがモリアーティはまだ満足していないようで、さらに問うた。
「…それだけかね?」
「もうひとつ。モリアーティ教授は、天然ハーブ系のコロンを使う、オシャレな老人だって聞いてたんだ」
「へぇー、それがワインを渡したときに匂ってきたってわけか…」
「見事だ。まるでミニホームズを見ているようだ」
秀樹が納得して感心し、モリアーティも素直な賞賛を口にする。コナンは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ところで、私に何の用だ?」
ここからが本題である。
コナンはジャック・ザ・リッパーをロンドンを恐怖に陥れるため放ったのだろうと訊き、モリアーティは「当たらずとも遠からずだ」と答えた。
そして教えてくれたのは、ジャック・ザ・リッパーは貧民街で拾った浮浪児だったこと。母親に捨てられ、路頭に迷っていた彼の犯罪者としての才能を見抜き、引き取って一流の殺し屋に育て上げたと。
では、なぜ何の罪もない女性をも殺しているのか。
その疑問には、彼がモリアーティの想像を超える殺人鬼になってしまったことが原因だと答える。一連の事件はあの子─── ジャック・ザ・リッパーの暴走だと言う。
そしてさらに、驚くべきことを告げた。
「君達がジャック・ザ・リッパーを退治しようとしているのなら、私も協力しようじゃないか」
「え?」
「協力?」
モリアーティの言葉に、
ひじりが目を細める。協力、と言うがこの老人の場合、まさか良心が痛んだからというわけではないだろう。自分の手に余る殺人鬼を代わりに始末してもらいたい、といったところか。察しながらも口にはしなかった。
モリアーティは、ジャック・ザ・リッパーは暴走しているが指令を送ればまだ従うはずだと言い、コナン達がそこに先回りすればいいと笑う。
明日のサンディタイムズの広告に彼へのメッセージを載せるから、それを見ろ、と。誰を殺すのかは、見たら判るとも。
秀樹はコナンにモリアーティを信じるのかと訊くが、他に手がないし、賭けてみようとコナンは笑みを見せる。それにモリアーティは鼻を鳴らして笑みを深め、ふとこちら───
ひじりと快斗の方を見て鋭い目を細めた。
「…君達も、才能がありそうだ。私のもとへ来る気はないか?」
「「お断りします」」
「そうか、残念だ」
突然のスカウトに、コナン達は驚き、しかし2人は声を揃えて即答する。
モリアーティは答えが予想できていたのだろう、不快になることもなく、むしろ楽しそうにくつくつと喉を鳴らして笑う。
「気をつけたまえ。君達のような者は、一歩間違えると
こちら側へと落ちてしまう」
「そうならないために、2人でいるんです」
「…そうか。ならば、どちらかが欠けたときに、また誘うとしよう」
不穏な笑みを浮かべるモリアーティの煌めく目を、
ひじりと快斗は真正面から見つめ返す。
モリアーティはきっと、直感的なところで気づいているのだろう。それは
ひじりと快斗も自覚していることだ。
ハンデを課せられて落ちた身体能力も、技術も、知識も。使いどころを間違っていると知りながら、それでも目的のため、ピアノ線のようなぎりぎりの綱渡りをしている。
「残念だが、それでもオレはあんたの誘いは受けねーぜ」
快斗が笑う。迷いの無い、澄んだ目で、笑って言う。
「オレ達は、2人で死ぬんだ」
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