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「あの子がフェアリーねぇ…やっぱ、普通の女の子にしか見えねぇな、俺にはよ」


 暗い路地、建物の壁に背中をつけた男は、懐から取り出した煙草に火を点けて吸い、ゆっくりと白煙を吐き出した。





□ ベイカー街の亡霊 7 □





「こんな遅くに、どちらさま?」


 扉が開き、出て来たのはひとりの女性。彼女がおそらくハドソン夫人だろう。
 まずひじりは夜分遅くに申し訳ありませんと丁寧に非礼を詫び、自分の名を名乗ってホームズに会いに来たと簡潔に用件を述べた。ホームズに会いに来る人間は珍しくないのだろう、ハドソン夫人は驚きもせず、ホームズとワトソンは出張で不在だと告げる。


「出張、ですか」

「ええ。ダートムーアという田舎に」


 ダートムーア。何だっけ、それ。
 ひじりは蘭ほど新一のホームズ話を聞いていなかったので思い出すのに時間がかかっていると、後ろから蘭の慌てた声が「すみませんけど、今日は何日ですか?」とハドソン夫人にかけられた。夫人は唐突な問いに怪訝そうな顔ひとつせず、9月30日よと教えてくれる。


「9月30日…ダートムーア…。そうか!バスカヴィル家の犬事件だ!」

「そうよ!ちょうど2人がロンドンを離れているときだわ」


 流石ホームズオタク。すぐに思い出し、それに付き合わされていた蘭も思い出したようだった。
 事件はともかく、はっきりしたことは、今ロンドンにホームズとワトソンはいない。
 優作と博士の性格上、ここでホームズを出演させないというわけではないはずだ。ならばやはり、ノアズ・アークによる改変か。もしかすると、先程の赤いジャケットの男も。


「あなた達、2週間前の事件でホームズさんに協力して大手柄だったそうねぇ!」

「え?」


 ひじりが目を細めて思案しているとふいにハドソン夫人に笑顔でそう言われ、子供達は顔を見合わせた。
 ハドソン婦人の言う「2週間前の事件」には当然心当たりはない。もしかしたら別の誰かと勘違いしているのかもしれない。しかし彼女は疑うことなく一同をお上がりなさいと促した。温かいミルクティーを淹れてくれるらしいが、甘えてもいいのだろうか。
 だがハドソン夫人はひじりの否定の言葉を聞く前に踵を返し奥の部屋へと向かう。


「誰かと勘違いしてるな、あの人…」

「そっか!オレ達のことを、ベイカーストリートイレギュラーズと間違えてるんだ」


 快斗の呟きに、コナンが笑みを見せる。
 ベイカーストリートイレギュラーズ。そういえば少し前、ジェイムズがコナンを始めとした子供達をそう称していたような。
 秀樹が「何だよ、それ」と疑問の声を上げると、蘭がホームズが雇った、浮浪者の子供達のことだと教えてくれた。成程、ハドソン夫人はコナン達を、少年探偵団の先輩とも言えるべき彼らと間違えたのか。
 しかしここで人違いですと辞退するわけもなく、ホームズの部屋を調べるチャンスでもあるのでお言葉に甘えることにして、一同は家の中へとお邪魔することにした。

 ハドソン夫人に案内してもらってホームズとワトソンの部屋へと入る。中はテレビで見たことがある通りの内装で、ワトソンが使っているのだろう実験器具や、大量の本があった。


「それじゃあ、お茶が入るまでくつろいでらっしゃいな」

「ありがとうございます」

「お言葉に甘えます」


 ひじりと快斗が礼をして、ハドソン夫人は笑みを浮かべたまま部屋を出ていった。
 一同は早速部屋の中を見渡す。すると元太が1枚の写真に気づいて声を上げ、つられて見てみると、どこかで見た顔が映っていた。
 髪のある博士。それにオールバックにしてヒゲを剃った優作。開発者権限を使って思いっきり遊んでいる。思わず呆れたひじりだった。
 おそらくこの2人がホームズとワトソンだろう。となれば、もしかしたらホームズの最愛の人物である彼女はもしかすると。


「さて、そんじゃあ早速部屋を調べてみるか」

「ホームズのことだから、ジャック・ザ・リッパーに関する資料を集めてるはずだよ」

「みんなで手分けして探そう」


 快斗、コナン、ひじりがそれぞれ言うと、先程助けられた恩からか、清一郎は「はい」と素直な返事をして早速動き出してくれた。元太歩美光彦も本棚の本に手を伸ばして調べ始める。ひじりと快斗も机の上に積まれた本を手に取った。
 だが、調べると言ってもここはロンドン。文字はもちろん英語。しかし、ここはゲームの世界だ。すぐに頭の中で日本語へ翻訳され、英文が日本語として読めるようになった。


「すげ!オレ天才か!?」


 元太が驚愕の声を上げるが、それはゲームの中限定だ。
 哀に指摘されてそれを知った元太がそれならずっとゲームの中にいてぇなぁ、などと呟いたために、歩美から「何言ってるのよ!」と糾弾され、光彦からも「このままボク達、ゲームオーバーになって死んじゃうんですよ!」と叱られてしまっていた。
 そんな子供達に快斗が苦笑し、ひじりもやれやれと肩をすくめて資料探しに戻る。目についた本や紙の束をめくるが、なかなか目的のものは出てこない。これは違うあれも違う。


「諸星君、ちょっと失礼するね」

「あ、ああ…」


 ひじりは本棚の前に立つ秀樹の横に並んで適当に本を手に取って開く。
 ひじりをちらちらと見上げていた秀樹だったが、気づかないふりをして資料探しを続けていれば、秀樹は少し距離を取って本をめくり、目当てのものではないと分かって閉じるとやや乱暴に本棚へ本を戻した。その衝撃で、ゆらりと頭上で何かが動く。ひじりがその気配を感じて顔を上に向け、転がり落ちて来た古いボールを受け止めた。


「何だそれ?きったねぇボール」

「……」

「ほら、貸せよ」


 秀樹がひじりの手からボールを奪い、やっぱり汚ぇ、と眉を寄せて呟き後ろのソファの方へ放った。
 それは資料探しをサボりソファに座っていた少年の1人、進也のもとへと飛んで、彼は軽く受け止めてボールを手にし、まじまじと見たそれが100年前のサッカーボールだと気づいて湧き上がる笑みを隣の晃へと向けた。晃が100年前のサッカーボールと知ってやはり興奮をあらわにする。


「……」

「…? 何?」

「別に、何も」


 会場にサッカーボールを持って来るほどのサッカー少年であるはずの秀樹から、ひじりは無表情に抑揚なく淡々と言って視線を外した。そのまま本棚に収まった本の表紙をさらい、目ぼしいものがないためその場を離れる。


「あ、あった!ひじりさ…あー、みんな、これじゃねーか?」

「快斗兄ちゃんは本っ当、ひじり姉ちゃんばっかりだよね」

「うるせぇよ」


 快斗が声を上げて注目を集め、コナンに突っ込まれたが悪態で返し、中央のテーブルに冊子を置いた。どれどれと子供達や少年達が覗きこむ。ひじりも彼らの上からそれを覗きこんだ。
 「ジャック・ザ・リッパーに関する考察」と題打たれたそれを、コナンが開く。


「一番最近に起きた事件は…9月8日」


 資料によると、殺されたのはハニー・チャールストン。2人目の犠牲者で、ひとり暮らしの41歳の女性。
 遺体発見場所は、ホワイトチャペル地区セント・マリー教会に隣接する空き地。殺人現場の遺留品は、2つのサイズの違う指輪。被害者も指輪も白黒だが写真が載っており、確かに指輪のサイズが違う。


「…『ロンドンを恐怖のどん底に突き落としたジャック・ザ・リッパーは、前代未聞の社会不安を引き起こした点から、悪の総本山、モリアーティ教授に繋がっていると、私は確信している』…」

「モリアーティ教授!?」

「あいつまでゲームに登場するのか!」



 ホームズに関する知識が少なからずある蘭が驚きの声を上げ、コナンが息を呑んで唸るように吐き捨てる。
 モリアーティ。ひじりにとてそれくらいは分かる。ホームズの最大の宿敵。犯罪界のナポレオン。
 だが進也を始めとした子供達には分からないらしく、誰なんだよ!と乱暴に訊いてくる彼らに、コナンは丁寧に教えた。
 しかし、モリアーティは犯罪に直接手を下すことは殆どなく、陰で糸を引いてはいるがなかなか姿を現さない人物だ。
 そんな彼に、どうやって会おうというのか。その疑問に、コナンはモリアーティに繋がる人物に接触すればいいと答えた。


「セバスチャン・モラン大佐に」


 モラン大佐といえば、確かモリアーティの腹心の部下だったか。


「大佐が根城にしているのは、ダウンタウンのトランプクラブよ」


 哀が手に取ったメモを見て言う。さて、これでとりあえずの目的は定まった。
 しかし、モランも危険な人物には違いない。ひとつ間違えれば、全員ゲームオーバーの可能性だってある。故に、十分に注意し気を引き締めなければならない。
 この重い体でどこまで動けるかは分からないが、動けなければ死ぬ。ひじりも快斗も、それだけは確実に分かっていた。






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