138





 そういえば名前を知らないということで、お互い軽く名乗り合う。
 リーダー格の少年は諸星もろぼし 秀樹ひでき、青いジャケットの子は菊川きくかわ 清一郎せいいちろう、緑のジャケットの子は滝沢たきざわ 進也しんや、そして元太ほどではないにしても太めな少年は江守えもり あきら
 こちらもそれぞれが名乗り、一同は通路の先にある光の扉をくぐってステージへと入った。

 一瞬のまばゆい光の後に視界に入ったのは、「霧の都」と称されて相応しいロンドンの様子だった。
 ロンドンの“霧”とは、水蒸気のようなきれいなものではなく、石炭や石油を燃やした煤煙が霧と複合してできたスモッグのことだ。だから空気が淀んでいるように感じ、良くない匂いもする。それにしてもこれだけリアルだと、一瞬こちらが現実なのかと疑ってしまう。
 ゲーム内の時間は夜で、寝静まっている人が多いのか、通りには人の気配はない。


『キャ────!!!』


 辺りを見回していたひじりは、唐突に甲高い女の悲鳴を聞いて視線を鋭くさせた。さっと快斗が庇うようにひじりの前に立つ。それでもその動きからキレが欠けているのは、重くのしかかるハンデのせいだろう。





□ ベイカー街の亡霊 5 □





「ジャック・ザ・リッパー!」


 いち早くコナンが悲鳴のもとへと駆け出して行く。元太が慌ててコナンを呼ぶが止まるはずもなく、ひじりも後を追って走り出した。快斗もその隣に並んで走り、他のみんなもその後ろを追って走り出す。その最中、ふと違和感を覚えたひじりはブーツを一瞥して目を眇めた。


「ブーツの効力が消えてる」

「…って、それじゃあ」

「たぶん、ペン型スタンガンも使えない」


 そして同じく、コナンのキック力増強シューズも。
 2人がコナンのもとへと辿り着くと、ちょうどコナンが地面に落ちていた金属の筒のようなものを蹴ったところだった。しかしそれは軽く飛んで地面を転がるだけで、走り去る影に届きはしない。さらに、蹴った反動のダメージをもろに食らい、「ってぇ~~~!」とコナンは足を抱えて痛みに跳ねた。


「あれは痛い」

「おいおい、大丈夫かよ」

「大丈夫、コナン君?」

「う、うん…」


 ひじりと快斗に少し遅れて追いついた蘭に、コナンは痛みに引き攣った笑みを向ける。
 哀がコナンに近寄って博士の発明品も使えないようねと囁くと、眼鏡と時計を確かめたコナンはああと頷いた。
 すると、ふいに英語で人の声が聞こえて振り返る。既に事切れて倒れている女性を見て、年嵩の男が叫んだ。
 ひじりと快斗、そして蘭は英語が分かるため男が周囲に「ジャック・ザ・リッパーが出たぞ!警察を呼んでくれ!」と叫んでいるのが分かったが、コナンと哀以外の子供達には無理だろう。

 男の叫びを受け、ざわざわと住民が起き出して窓から身を乗り出す。外にも何人かが出て来て、被害者の女性を取り囲んではその顔に憂いを落としていた。
 騒ぎに巻き込まれてはたまらないため、路地の陰に隠れて成り行きを見ていた一同は、ふいに言葉が聞き取れるようになったことに気づいた。日本語になるよう設定を変えてくれたのだろう。


「まるで本物の世界だなー!」

「見るもの聞くもの、肌寒さも全て本物です」


 冷や汗を滲ませながら自身を抱きしめるように腕を回す光彦に、コナンも足の痛さも本物だったぜと半眼で呟く。
 確かに少し肌寒いな、と思っていればふわりと肩にぬくもりがかかり、振り返れば快斗が上着をかけてくれていた。


「寒いでしょうから、どうぞ」

「…ありがとう。快斗は寒くない?」

「ええ。あなたの頬があたたかい限り、オレが凍えることはありませんよ」


 にこりと笑いながら頬を撫でられ、ありがとうと目許を和らげる。厚意に甘えて上着に腕を通すと、少し大きいながらもすっぽりと自分を包むぬくもりに細い息をついた。


「…と、警察のお出ましだ」


 快斗の言葉通り、ロンドン警察の警官が現れ、女性の遺体を見ると「すぐにレストレード警部に連絡だ!」と若い警官を振り返って指示を出し、「はい!」と応えた彼は素早く踵を返した。


「…これ以上ここに留まっても意味がない。一旦離れよう」


 ひじりの言葉に、異論はないようで一同は路地を通ってその場を離れる。
 人気のない橋に着き、とりあえずそこで足を止めた。リーダー格の少年─── 秀樹が橋の欄干に背中を預けてため息をつく。


「ったく…犯人を捕まえろったって、どこを捜しゃいーんだよ」


 確かに、手掛かりは少ない。犯人は取り逃がしたし、現実ならともかくここはゲームの中のロンドン。ツテがあるはずもない。とにかく朝になるのを待つことにして、暫くはこのままでいるしかないだろう。
 するとふと、歩美が腕をさすって寒いと呟き、すぐにコナンが上着を脱いで渡した。歩美は「いいの?」と言いながらも嬉しそうで、ワンテンポ乗り遅れた光彦がそれを横目に哀に上着を渡し、哀は礼を言って受け取った。その様子を見て、元太も上着を脱ぐと蘭へと差し出す。そんな微笑ましい光景にひじりと快斗が目許を和らげていれば、2人のもとへと哀が歩み寄った。


「ところでひじり、快斗君。体の方は大丈夫?」

「うん、少しは慣れた。…けど、重いものは重い。できれば荒事は避けたいな」

「そう…快斗君。ひじりは身重なんだから、気遣ってあげるのよ」

「哀、意味深なことを言うのはやめてくれ…」


 あと、それを言うなら身重なのは快斗も同じだ。
 くすりと笑みをこぼす哀に快斗は苦笑いを浮かべたとき、ふいにどこからか博士の声が響いてきた。


『聞こえるかコナン君、阿笠じゃ』

「聞こえるよ、博士!」


 確かノアズ・アークが言うには、現実世界の声は届かなかったはず。しかしここはバーチャルリアリティ。ゲームの中だ。何とかプログラムをいじって回線を繋いだのだろう。
 回線さえ繋がればこちらのものだ。何せ、博士はゲームの開発者の1人。さらに手掛けたのはこのステージで、博士の助けがあればこのステージは余裕でクリアできる。


『よーく聞くんじゃ。そのステージでは傷を負ったり警官に捕まったりすると、ゲームオーバーになるぞ。今、君達がいる場所は、イーストエンドのホワイトチャペル地区じゃ。そこから─── ザザッ 』


 突然、博士の声に雑音が混じって聞こえなくなる。

 ─── ノアズ・アークか。

 ひじりと快斗は瞬時に悟り、やはり邪魔をされたかと内心で舌を打つ。
 今、このゲームを支配しているのはノアズ・アークだ。当然外からの干渉にも気づく。そして彼は、その干渉を決して許しはしない。


「どうしたの博士!?聞こえないよ!」


 コナンが博士に向かって叫び、言い終わるが早いか、唐突に轟音を立てて橋が崩れ始めた。
 崩れたのは少年達がいた側。何もないのに突然崩れたということは、これも間違いなくノアズ・アークの仕業に違いない。
 誰もが慌てて逃げ惑う。ひじりと快斗は素早く子供達の手を引いて逃れた。しかし完全に不意を突かれたのと、不安定な場、さらに子供の足という連鎖にかかり、最後尾を走っていた清一郎が間に合わず橋から落ちてしまった。

 その腕を、快斗が掴む。


「…くっ、そ!」


 しかし、ハンデの課せられた重い体ではそう簡単に上げることができず、快斗が僅かに顔を歪めた。すぐにひじりも快斗の隣へ身を乗り出し、「手を!」と手を差し出して掴んできた少年の体を引っ張る。
 それでもなかなか上がらないのを見て蘭も手を貸してくれ、さらにコナンを始めとした子供達も協力してくれたことで、何とか引き上げることができた。


「もう大丈夫」


 ひじりは地面に四つん這いになって荒い息をつく清一郎の背を優しく撫でる。
 驚きと恐怖で動けずにいた少年達が、危うく最初の犠牲者となるところだった清一郎に冷や汗を滲ませていた。

 ひじりは呼吸が落ち着いた清一郎の手を引いて立たせ、ふらつく彼の背中をぽんと軽く叩く。怯えを残しながら見上げてくる少年の頭を、安心させるように撫でた。ほっと息をつき、ひじりと快斗に向かって小さく頭を下げた清一郎が仲間の少年達のもとへと戻る。
 それを一瞥して、2人は揃ってため息をついた。


「ダメだ…本来の半分程度しか力が入らなかった」

「このハンデは、ちょっと厄介だね」


 子供達の足手纏いにはならないだろうが、かと言って先陣を切ったり子供達を護ったりすることができるわけではない。
 あまり荒事にならないよう努めるか。傷を負っただけでゲームオーバーになるくらいだから、そんなことにならないことを祈る。


「博士の声、聞こえなく…なりましたね」


 空を見上げ、光彦が呟くとコナンがノアズ・アークに切断されたようだと答える。
 それに、それじゃあどうやってお助けキャラを捜せばいいんです?と当然の問いが返って来て、コナンは心配すんなとでも言いたげに笑みを浮かべた。


「それなら、さっき警官達が話してたろ?『レストレード警部に連絡だ!』ってな」


 レストレード警部。それは確か、コナン・ドイルの小説に出てくる登場人物だ。だが、このゲームは史実を元にした世界のはず。しかし警官達は確かにレストレードという名前を口にした。
 それはつまり、この世界が史実と小説を混ぜて作られた世界であるということ。
 このステージの原案者は工藤優作だ。そうであっても全くおかしくはない。

 そして、そうなるとこの世界における“お助けキャラ”が、その姿を浮き彫りにする。
 蘭の「それじゃあ、お助けキャラって…」との呟きに、コナンが不敵に微笑んだ。


「ああ…いるはずだよ。─── あのシャーロック・ホームズがな」






 top