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ノアズ・アーク。ノアの方舟。
かつて、選ばれた者達を乗せた小舟は、今度は自ら大洪水を起こそうとしている。
それを生み出したのは、まだ幼い少年。その天才的な頭脳のせいで友達と自由に遊ぶことも叶わなかった、憐れな子供。
「ノアズ・アーク…いや、ヒロキ君よ」
男はほのかな憐れみを混ぜた笑みを浮かべ、パソコンのディスプレイを見つめる。
いいぜ、協力してやっても。その代わり、俺の頼みもひとつだけ聞いてもらう。
─── さぁ、“ゲーム”を始めよう。
□ ベイカー街の亡霊 1 □
今日、米花シティホールで、日本のゲームメーカーとIT産業界首位のシンドラーカンパニーが共同開発した、新型体感シミュレーションゲームの発表会を兼ねたパーティが行われることとなった。
それに招待された
ひじりは、同じく招待された快斗を始め、小五郎や蘭、コナン、子供達と共に会場へ足を踏み入れていた。
「はー、随分物々しいな」
「ここにこぎつけるまで相当大変だったみたいだからね」
あちこちに立つ警備員、入口には金属探知機のゲートに手荷物検査。
新型ゲームもそうだが、何よりこのパーティに招待されたゲスト達も理由を占めているだろう。
「警察官僚、大物政治家、財閥会長、大手会社社長…普通ならテレビの向こうでしか見れないような人ばかりだ」
「一緒にいる子供達は、例のゲームの参加者かな」
今回初めて発表される新型ゲーム─── 通称「コクーン」。
名の通り、繭の形をしたカプセルに入り、催眠状態の中で音声認識システムを持つゲームプログラムと会話しながらバーチャルリアリティの世界で遊ぶという、最新テクノロジーの粋を集めたゲームだ。
このゲームにはプレイヤーが自由に遊ぶことができる5つのステージがあるということだが、いったいそれらがどんなゲームになっているのかは報道されていない。判っているのは、ステージそれぞれで歴史上の事件を体験できるということ。
それを遊ぶことによって初めて知ることができるのが、選ばれた高校生以下の50人の子供達。日本初の、コクーン体験者というわけだ。
「
ひじりさんはゲームに興味ある?」
「ないわけではないけど、悔しがるほどでもないかな」
「オレも興味ないって言えば嘘になるけど、小学生の子供達でも楽しめるようなものだろうし、ちょっと物足りないかもしれませんね」
ゲートをくぐって来るコナン達を待ちながら快斗と
ひじりはそんな会話をして、最後に小五郎が手荷物検査を終えると全員で会場へ歩き出す。
道中、広いホールの大きなステージに据えられたたくさんのコクーンが見える窓があり、元太が「オレもやりてぇぞ」とこぼすが、「無理ですよ」と光彦の言う通りそれは無理だ。
ひじり達はパーティには招待されたものの、コクーン体験者には選ばれていない。
興味を引かれる子供達の中で、コナンだけは「たかがゲーム」と特に興味がないようだ。まぁそもそも彼は本当は立派な高校生で、しかもコンピュータゲームが苦手ときた。そういえば昔からゲームの類はしなかったな、と思い出す。
ひじりが行こうと子供達を促してパーティ会場に入ると、壁に噴水ではなく滝があり、そこにブロンズ像が数体据えられているのが目を引いた。
既にたくさんの人が集まっていて中はごった返しているが、会場は広いため身動きが取れないほどではない。以前訪れたツインタワービルのパーティ会場よりも広い上に、料理や飲み物の数も多種多様でたくさんある。小五郎が早速スタッフから酒を受け取って一気に飲み干した。
「お父さん、警察の偉い人も来てるみたいだし、飲みすぎないようにね?」
「わーってるよ!高い酒は悪酔いしねーんだよ!」
蘭の苦言に上機嫌な笑顔で答えるが、そうではない、という
ひじりのツッコミは内心に留まった。ハハハ、と呆れたように快斗が隣で笑う。
「…お、あれが選ばれた子供達か」
ふいに快斗が離れた所を見て呟き、一同の視線が同じ方向を向く。そこには女性スタッフから楕円形のバッジをもらっている子供達がたくさんいた。
彼らはいずれ日本の将来を担う子供達だ。今の日本の縮図、と言っても過言ではない。
「らーん!
ひじりお姉様!」
「園子」
ふいに赤いパーティドレスに身を包んだ園子がやって来て、快斗や子供達にも声をかける。
その胸元にきらりと光る楕円形のバッジ。光彦も目敏く気づいたようで、驚いてバッジを指差した。
「あっ、園子さん!まさかそのバッジ…」
「ああ、これ?」
「ひょっとして園子も選ばれし者?」
蘭の問いに、園子は鈴木財閥がゲーム開発に資金援助した関係でね、と答える。
考えてみれば当然と言えば当然だ。光彦がいいですねぇと羨ましそうに呟き、オレも欲しいなぁと元太が両手を後頭部で組む。すると、その呟きを聞いてか、「諦めな」とどこからか不遜な言葉がかかった。
声がした方を振り返ると、10歳くらいの4人の少年達がそこにいた。リーダー格らしき赤いジャケットを着た少年の手にはサッカーボールが握られていて、いくら大物の息子でもここにそれを持ち込むのはいかがなものかと
ひじりは無表情に内心で呟いた。
少年達は見下したような嫌な笑みを元太達に向けて口を開く。
「立場が違うんだ」
「そもそもお前ら、ちゃんと招待されてんのか?」
緑のジャケットを着た少年の嘲る言葉に反論したのは、目を眇めた園子だった。
腰に手を当てて失礼でしょと少年達を窘める。今回
ひじり達をパーティに招待したのは園子で、れっきとした鈴木財閥の招待客だ。
少年達はどうやら園子が鈴木財閥令嬢だと知っていたらしく、後ろにいた青いジャケットの少年がこれはこれはと慇懃に胸に手を当てて礼をする。
しかし園子には敬意を払いつつも、一般人である子供達にはやはり不遜な態度で、人間は生まれたときから人生が決まるだの綺麗な服も着る人間を選ぶだの選ばれなかった人間は外から指を咥えて見てればいいだの、好き勝手なことを言って嘲る子供達に
ひじりはいっそ感心し、親の顔が見てみたいと吐息のようなため息をついた。
蘭は小五郎に説教してやってと言うが、この手の子供は人の話など聞かない。人生がどういうものか、身をもって知るしかないだろう。しかし彼らが痛い目を見ることはあるのだろうか。
しかしひとつ気になったのが。
「…生まれたときから人生が決まる、ね」
「! 気にすることはありません。子供の戯言です」
「…そうだね」
小さな呟きに即座に反応した快斗がフォローするが、あながち間違いでもなさそうだと内心で呟く。だがそれ以上は考えることをやめ、ミニゲームをしようと去って行く少年達を見送る。
ミニゲーム、とはまさか。あまりこの場では良い響きのない言葉通り、少年達は会場内でサッカーを始めてしまった。
「あのガキ共…」
「同じサッカー小僧なら新一の方がずっとましだね」
「おい」
下からどういう意味だと言わんばかりの声がかかったが無視をして、
ひじりは携帯電話を取り出すと少年達を録画し始めた。
少年達は躊躇いなくボールを蹴るため、近づくのは危ない。が、今まさにボールが他人の顔に当たったことでこめかみに手を当てた。
ひじりがおもむろに歩き出して少年達のもとへと向かう。快斗がやれやれと肩を竦めてその後を追った。他の者は、無表情ながら
ひじりの目が据わっていたことに気づいて動きを止めている。触らぬ神に何とやら。
近づいて行っている間に、太めの少年が勢いよく蹴ったボールが1人の男の手に収まっていた。確か彼は、ゲーム開発責任者の
樫村 忠彬だったか。
サッカーボールを手にする樫村の前に、少年達が苛立たしげに立って何すんだと不満を口にする。しかし樫村は、大人の威厳をもって「他のお客様の迷惑になる」と淡々と咎めた。
誰だよおっさん、とリーダー格の少年が胡乱げに見上げる。樫村がゲーム開発の担当者と知ると、少年達は自分の保護者の威を借ってそれぞれ脅しをかけ、それにサッカーボールを返した樫村が答えるより早く、
ひじりは軽く少年達の後頭部をはたいた。
「いい加減にしなさい、君達」
「なっ…何すんだよ、あんた!」
「自分達の不始末に親を持ち出すだけでなく、さらに脅しをかけるというのは、子供だからと許されることではないよ」
「っせーな、オバサン!」
赤いジャケットを着た少年の悪態に、控えるように
ひじりの後ろにいた快斗の雰囲気がすっと冷える。
確かに少年達からしたら自分はオバサンだろうかと思いながら、軽く腕を上げて快斗を制す。そして、僅かに目を細めて鋭い視線を少年達へ向けた。
「君は生まれたときから人生が決まると言ったね。ならば理解なさい。君達の言動は、“子供の悪戯”では済まされない立場にあるということを」
「な、何言って…」
「子供の不始末は、親の不始末。君達が悪いことをすればするほどあなた達の親の立場が悪くなる、ということ。分かる?」
「……」
「子供ひとりまともに躾けられない親に、会社や社会を任せられると思う?」
「…意味、分かんねーよ」
「察しが悪いね。分かるように言うなら、今の君達はとんだお馬鹿さんということだよ」
「……!」
淡々と無表情に断言された言葉に、少年達が顔色を変えて睨んでくる。年上だが見下していた人間にあからさまに馬鹿にされ、無駄に高いプライドが傷ついたのだろう。
しかし
ひじりはそれにやはり表情を変えることなく、ゆっくり腰を屈めて視線を合わせると少年達の頭を軽く叩いた。叱るときのものではなく、優しく撫でるようにするものだ。
「立場が違う。身分が違う。それを否定するつもりはないけれど、それならそれ相応の言動をなさい。君達が、ただの馬鹿でありたくないのならね」
「……行こーぜ」
ひじりの言葉が効いたのかは分からないが、
ひじりと樫村を睨むように見た少年達は、それ以上何も言うことなく踵を返した。
ふっと快斗の雰囲気が緩む。少年達の背を見送りながら、丸くなったものだと
ひじりは自分をそう評する。
もし、新一があんな態度を取っていて、昔の
ひじりがいたのなら。
ひじりは口よりも先に足を出して蹴り飛ばしていただろうから。
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