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 コナンが会場を飛び出して行った。
 従業員の話によると、ビルの前にポルシェ356Aの車が停まっていたとのこと。色は黒、さらにジンの気配はずっと感じていたから、間違いないだろう。


「……」

「……」


 コナンが乗って行ったエレベーターから、2人はすいと視線を外した。





□ 天国へのカウントダウン 3 □





「やめるわ、もう」


 ツインタワービルから帰って来てからの第一声、哀はひじりに向かって小さくそう言った。気づいているんでしょ、と問われて隠すことではないので頷く。いいの?と問うと俯いて頷かれた。


「彼らが現れたのは、私のせいかもしれない」

「どうかな。私のせいかもしれないよ?」

「そうかもしれない。でも…もう、私の軽率な行動であなた達を危険な目に遭わせたくないから。今まで、博士や工藤君に黙っていてくれてありがとう」


 それきり口を閉ざす哀にひじりは少し考え、地下室にいる博士にひじりと哀の部屋に決して入らないよう言うと哀を引っ張って自室へ入った。ベッドに哀を座らせ、その前に膝をついて見上げる。揺れる瞳と目を合わせてゆっくり頭を撫でた。
 哀は固く目を閉じて俯き、唇を震わせてはたりと涙をこぼす。頭を撫でる手が掴まれてぎゅうと強く握られた。


「ねぇ…ひじり、私は誰なの?私の居場所は、どこにあるの?」

「……」

「だって私は…私は」


 はたはたと頬を伝う小さな雫がこぼれ、ひじりの手を濡らしていく。
 それは、哀が初めて吐露する弱音だった。バスジャック後のときでさえいつも通りに振る舞っていたが、本当は哀の心はそこまで強くない。
 分かっている。だからこそひじりは常に哀の目が届く場所にいることを心掛けていた。快斗と2人で、大丈夫と言い続けた。
 ひじりは哀の涙を拭って手を解き、ゆっくり腕を回して頭を抱え込むようにして抱き締めた。


「哀は哀だよ。哀の存在も、居場所も、哀が望めばすぐそこにあるもの。何も不安に思うことなんてない」

「でも、私はひとりよ」


 ぽつりこぼされた言葉に、ひじりは体を離して首を傾げる。


「私がいるのに?」

「え…」

「私だけじゃない。快斗も、新一も、博士も。それに子供達も。みんないるよ。哀は見えてないだけ。ちゃんとみんないる。哀はひとりじゃない」

「……そう、かしら」


 そうだよ、と躊躇いなく頷く。それでも納得していなさそうな哀に、ひじりは小さくため息をつく。


「哀が本当にひとりだったら、夜中こっそり忍び込むベッドもないはずだけど?」

「……」

「哀は考えすぎるんだと思う。言ったでしょう、私が護るって。だからもう少し心に余裕を持とうね」


 ぺしぺしと哀の頭をごく軽く叩く。忘れた?と訊けば忘れてないと小さく返された。ならよし。
 腰を伸ばして立ち上がり、ほら、と哀に手を伸ばす。呆然と見上げる哀に、ほんの小さな笑みを浮かべてみせた。


「哀がひとりじゃないって教えてあげるから、行こう」

「……どこへ?」

「快斗のとこ。快斗もすごく心配してたから。快斗のマジック観て、買い物でもして、博士も一緒に夕飯食べて…学校に行けば、新一や子供達がいる」


 ほら、哀はひとりじゃない。言っても分からないのなら、身をもって知ればいい。
 だから行こうと伸ばした手に、恐る恐る、小さな手が触れた。





■   ■   ■






 営業時間外でCloseの札がかかったブルーパロット店内のカウンター席に座った快斗は、昼間にツインタワービルで撮った10年後を予想した写真を寺井に見せた結果、


「ああ坊ちゃま…!こんなにご立派になられて寺井は嬉しく思います!若き日の盗一様とよく似ておられる…!!」


 さめざめと感動と懐古の涙を流す寺井を相手にしなければならなくなっていた。
 だからそれ10年後だから。オレまだ17歳だから。とは、何となく言えずにいる。
 この分では未だに夫ラブ♡な母親も似たような反応だろう。それが面倒で見せずにいたら尚のこと面倒なことになるのは分かっているが。


「ジイちゃん、もう泣きやめって。あと、それひじりさんに渡すんだから汚さないでくれよ」

「分かっております、分かっております。ですがこれ拡大コピーして飾ってもよろしいですか?

「おい」


 思わず半眼になって寺井を睨むが、寺井はそんなものどこ吹く風、さっさと奥に引っ込み小さな機械音を響かせると満足げな顔で戻って来た。
 飾るんなら本物の10年後のオレにしろよ、と写真を返してもらいながら言えば、目を瞬かせた寺井は目尻をこれでもかとやわらかくして深く頷く。
 どうせ飾ってもらうのなら、父親のように偉大なマジシャンとなって世界中に名前を轟かせてからだ。写真の中の自分に盗一を重ねて快斗は不敵に笑う。


「そういえば、ひじりさんもご一緒に撮られたのですか?」

「ああ、そうそう。もらって来た」


 曲がらないようファイルに入れたひじりの10年後の写真を鞄から取り出してカウンターに置く。
 ひじりの写真をもらう代わりに、寺井に見せたあと快斗の写真を渡すようになっていた。
 快斗がファイルから写真を取り出して見せれば、大変お綺麗ですなと感嘆の声を上げた寺井が、ふいにおや?と目を瞬かせる。


「この方…どこかで」

「だろ?オレもどっかで見たような気がすんだよなー。小五郎さんが言うにはひじりさんの母親に似てるっつー話だけど、オレひじりさんの母親になんて会ったことねーし」


 だが寺井にも見覚えがあるということは、おそらく盗一繋がりだろう。ひじりの父親の優哉がそもそも盗一の友人だったという話だから、母親も知り合いだったとしてもおかしくはない、が。


「このこと、ひじりさんには?」

「見覚えがある気がする、とだけ。何だろなー、どっかで確かに見た覚えはあんのに、どーしても思い出せねぇんだ」

「ふむ…ひじりさんのお母様について、少々調べてみますか?」

「いや、それはいいや。ひじりさんが触れないようにしてるところに、オレ達が勝手に触れていいもんじゃねぇだろうし」

「そうですな。軽率な発言、失礼致しました」


 深々と頭を下げる寺井にひらひらと手を振る。
 ひじりの母親。父親以上に謎に包まれ、ひじりですら名前くらいしかまともに覚えていない存在。
 両親は10年前に離婚し、その2年後に母親が事故で死亡。8年前といえば、奇しくも盗一が亡くなった年だ。
 偶然の一致なのかどうかは快斗にも寺井にも、ひじりにも分からない。分からないままでいいとひじりがそれ以上触れないから、快斗達も触れないでいる。


「……ん?」


 ふいにポケットの中に入れておいた携帯電話が軽快な音楽を鳴らして、取り出してみればディスプレイに“工藤ひじり”の文字。
 唇に笑みを描いて素早く電話を取る。耳元から流れてくるひじりの声が耳朶を打った。


『快斗、今から会える?哀も一緒に』

「もちろん」


 バスジャック事件以後、哀が外に出たがらなかったことは当然知っている。ひじりから話を聞いた赤井もはっきり表に出さないまでも心配していたし、無論快斗もだ。
 だがそれも、最近は快斗や子供達のお陰で少しずつ良くなっているとはひじり談だが、その実ひじりのお陰も大いにあるだろう。
 表立ってひじりに懐いている様子は見せないが、他人を寄せつけないような雰囲気を常に纏っている哀が、一緒に住んでしかも同じ部屋だと言うのに文句も不満も何一つなく、むしろ仲が良さげなところを見れば、ひじりをそれなりに慕っていることは容易に読み取れた。


『哀、自分はひとりだって言うんだよ』


 ひどいでしょ、とひじりが淡々と言い、それはひどいと快斗も同意を返す。
 ひとりだなんて、そんなことあるはずがないのに。子供達も、博士も、ひじりも、快斗も、そして赤井も、哀の周りにはたくさんの人がいるのに。

 何も不安に思うことはない。君の幸せを願い、そして君が幸せだと感じられるよう、オレ達が君を護るから。

 だからどうか、気づいておくれ。

 ほら、


(君はひとりじゃないんだよ)






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