暖かな息を吐き出す空調の稼働音が小さく聞こえる。それ以外は人の小さな声と衣擦れの音。それと本を棚に戻したときの微かに固い音がこつりと耳朶を叩く。ほぼ静寂に包まれたそんな中で、大きな丸テーブルが並ぶ一角の端に腰を据えた2人は迷惑にならない程度の声量で言葉を交わす。


「ってことで、ここにこの公式をあてはめて…」


 声量を抑えた少年の声と指が教科書とノートを指し示す。右側に座った女はそれに小さな頷きを返し、ぴくりとも表情を動かさないまま正解を導き出した。それを見てじゃあ次はこれ、と少し難しくなった問題を少年が示す。女は促されるままシャーペンを走らせた。





□ 人形が見る夢 8 □





「ちょっと休憩しましょう」


 きりがいいところでかけられた快斗の言葉にひじりは指を止め、バッグからお茶のペットボトルを取り出し飲み始めた彼を見て自分も水筒に手を伸ばした。館内は基本飲食禁止だが、この談話スペース周辺には本棚はなく、ここだけは飲食物を口にするのを許可されている。


「ありがとう快斗、お陰でだいぶ進んだ」

「いや、ひじりさんってすごく頭良いんですね。一回教えれば応用もイケるじゃないですか」


 ひじりの前に置かれた教科書は新一が一学期に使っていた教科書で、それも数週間経てば既に殆ど終わっている。だが、その教科書がひじりの年齢とミスマッチしているのは気づいているだろうに、快斗は事情を聞くことも質問することもなく丁寧に教えてくれていた。
 その、一切こちらに踏み込んでこない気遣いにほんの少し違和感を覚えるものの、気遣い溢れる青少年だからかな、と気にしないことにする。

 本当は出会ったばかりの見知らぬ人間について行く――― この場合はついて来させるのは些か問題ではあるが、古いが知った人物の息子であるし、新一に似ているし、何より厚意しか感じないので警戒心など抱くことはなかった。
 自分が世間知らずである自覚はあるが、今まで感情表現がほぼ皆無であった男の傍にい続けたのだから、感情の機微に気づける自信はある。

 快斗からは、厚意しか感じない。その裏に、あるいは奥底に何かあるのかもしれないが、それに気づくことはできても読み取るには、ひじりは経験が足りなかった。
 少なくとも、快斗にはひじりに対して敵意も害意もない。だからこうして隣にいるのを享受している。


「数学以外にも分からないのがあったら、オレ教えますよ」

「でも、勉強あまりしないって…」

「いや、自分で言うのも何ですけど、しない割にオレ、頭は良いんで…」

「すごいね」

ひじりさんみたいに真面目に勉強できないんで、そんなことないです。変な知識ばっかで」


 素直にひじりが賞賛すれば慌てて首を振って頬を掻く。照れた笑みを浮かべた快斗に、うちの新一も似たようなものだよと内心呟く。
 新一も元から頭の出来がいいため勉強にあまり身を入れておらず、いち高校生には必要ないものばかり目を通している。だがそれが悪いとも不真面目ともひじりは思わない。それはそれで名探偵を目指す新一の役に立っているようだから。


「その“変な知識”が、快斗の役に立っているんでしょ?だったらそれは、変でも何でもないと思うけど」

「え…」

「違うの?」

「いや、違いません、けど…」

「じゃあそれは卑下するものじゃないよ。学校に行ってない私が言うのも何だけど、学校の勉強だけが全てじゃないから」


 淡々とした、だがしっかりと快斗を肯定する言葉に、真正面から言葉をぶつけられた快斗はぱちぱちと目を瞬かせた。そんなに変なことは言ったつもりはないんだけどと首を傾ければ、滲むようにじわじわと満面の笑みを広げた快斗に「ありがとうございます」と頭を下げられて思わず手を伸ばし、その癖毛を撫でた。昔、新一や蘭にしたように。
 すると驚いて顔を上げられ、嫌だったかとすぐに手を離して素直に謝る。そういえば彼は小学生ではなく立派な高校生で、ひじりは子供扱いしたつもりはなかったが、こちらが年上なのだから子供扱いされたと思われてもおかしくない。


「あっ、いやその、い、嫌じゃなくって!」

「?」

「びっくりして!驚いたって言うか、その……う、嬉しく、て」


 だが快斗は子供扱いされたのだと思ってはいなかったようで、慌てた様子で離されたひじりの手を惜しむように見ながら弁解する。しかしその言葉は顔の赤みを増すごとに尻すぼみになり、それでもはっきりと聞こえた言葉にもう一度首を傾げる。


「嬉しい?」

「……、綺麗なあなたの可憐な手に触れてもらえて、喜ばない男はいないと思いますよ?」


 言いながら手を取られて甲に口付けひとつ。先程までの歳相応の顔ではなく少し大人びているように見える顔とキザな言い回しの声音が、脳裏に白を蘇らせた。
 唇を離した快斗は手をひらめかせて赤いバラを一輪手に現した。差し出されたそれを受け取り、かぐわしい香りに目を細める。


「なんて、ね」


 大人びた笑みにほんの少しの苦みを垣間見せて、快斗はひじりの手を離すとにっこり微笑んだ。
 目の前で行われた小さなマジックがじわりとひじりの奥底で眠る“人間”を滲み出させるようで、ゆるく目を閉じる。
 こういうとき、自分も微笑みを返せたらよかっただろう。照れた仕草のひとつでも見せられたらよかった。けれど表情を動かさないまま、目を開けて快斗を見る。


「……ありがとう」


 誤魔化された感は、ある。けれど照れ隠しだろう、渡されたバラに追及をやめた。
 快斗はゆるく長い息を吐いて目を細め、微笑みを深めるとさて、と話題を変える。


「数学以外でオレが力になれることって、あります?」

「……古典と物理、あと一問一答と、何か雑学みたいな豆知識があれば、それを教えてほしいかな」


 正直なところ、殆どは暗記なので覚えてしまえば教わることはあまりない。けれど教科書をただ丸覚えするのも面白くない。教科書に載っていないことも同時に学びたいと思っての言葉に、快斗は任せてと快く頷く。
 むしろそっちの方が得意でよく脱線するかもと苦笑されたが、ひじりは構わないと答えた。


「じゃあ、ええと……古典、有名なかぐや姫からやってみます?原書と絵本を比べてみると面白いですよ」

「探してくる」

「ああ、オレも行きます。2人で探した方が早いですし」


 ひじりが立ち上がれば快斗も立ち上がって本棚に向かって行く。
 図書館に来るまでもそうだが、歩幅を合わせてくれる彼に、世間一般の男子高校生というものをよく知らないひじりは、きっとみんないい子達ばかりなんだろうなと良い意味での偏見をインプットした。






 冬は陽が落ちるのが早い。夕暮れが近づき学生の下校時刻になると、ひじりは勉強をやめて快斗と共に図書館を出た。時刻はまだ早いが、陽が落ち薄暗くなる前に家に戻っていなければ新一達を心配させる。
 今から帰る旨をメールし、外の下がりつつある気温に肩を震わせた。天気は良かったがさすがに夕方は冷える。マフラーと手袋は部屋のクロゼットの中で、持ってくればよかったと少し後悔しながら快斗と向き合った。


「今日はありがとう、快斗」

「どういたしまして。ひじりさん、またオレもご一緒していいですか?」

「いいけど…私は基本平日にしかいないし、この時間には帰ってしまうよ?」

「土日は?」

「休みたいな、さすがに」


 平日は勉強するが、土日祝日は一般学生のように自由に過ごすようにしている。
 新一と蘭は部活に行くので、用事を入れない限り一緒にいることはない。たまに蘭に弁当をねだられて新一の分と一緒に作って届けに行くくらいで、後は阿笠博士の家にお邪魔したり本を読んだり、インターネットで膨大な情報に目を通しながら少しずつ現実に慣れていくようにしている。
 なので、暇と言ったら暇である。そのことに快斗はぱっと顔を明るくした。


「じゃあ、今度オレとデートしてくれませんか?」

「どうして?」


 快斗は高校生なのだし顔も整っているのだから、わざわざ自分でなくとも相手はいるだろう。もしかしたら彼女もいるかもしれない。そう思って問いかければ、快斗はひじりの問いを分かっていたと言わんばかりに笑みを深くした。


「言っときますけどオレ、彼女とかいませんから!だから今日ひじりさんに勉強を教えたオレに、ご褒美ちょーだい!」

「…………」

「……だめ?」


 にっこり笑った顔が、ひじりの揺らがない無表情にしゅんと萎れる。幻覚か犬耳と尻尾まで垂れているように見えて、とても無碍にはできそうにない。
 勉強を教えてくれた礼もまだだし、気遣いのできる人物だし、合間合間に見せるマジックは上手いし、何より悪い気はしない。ちらりと頭の中を赤井の忠告がよぎったが、それ以外特に断る理由もないしでまあいいかとひじりは頷いた。
 途端、再び快斗の顔が喜びに輝く。よっしゃ!とガッツポーズされたがこんな無表情女の何がいいのか、さっぱり分からない。


「約束!後でやっぱり嫌、とか言わないでくださいね!」

「うん、分かった。私でいいなら」

ひじりさんがいーの!」


 ケータイ貸して!と手を差し出されて素直に渡す。快斗も自分の携帯電話を取り出して操作し、互いのアドレスを登録して満足そうに頷いた。
 白い機械を返される。メールするからと言われて頷きポケットに戻した。
 じゃあ、これで。今日は本当にありがとう。そう言って背を向けようとすると「ちょっと待って!」と呼び止められた。
 ずっと動かずにいてさすがに冷えて寒い。白い息を吐きながら鼻の頭を赤くして振り返れば、彼はばさりと白く大きな布を広げた。


「ワン、ツー」


 スリー、と発されると同時にふわりと首回りと手にやわらかな感触が纏わりついて、布を取り払い目を細めて笑う快斗が満足げに頷く。
 冷気を感じない首元に手を当てる。首に触れる前にふわりとやわらかな手触りの布に触れて、見れば群青色のマフラーが巻かれてあった。しかも後ろではきれいな蝶結び。鞄を持っていた手にも、いつの間にか同色の手袋がはまっていた。
 シンプルながらも安物にはありえない感触に、思わず顔を上げる。快斗は白い息を吐きながらきれいなウインクひとつ。


「綺麗なお姉さんに風邪をひかせるわけにはいかないんでね」

「でもこれ、快斗の」

「デート、楽しみにしてます」


 物じゃ、と続くはずだった言葉は快斗に遮られて途絶え、「あ、うん」と間抜けな頷きをしてしまう。「それじゃ、また」と手を振って雑踏に紛れていく快斗の背を呆然と見送り、その背が完全に見えなくなってひじりはゆっくり長い息を吐いた。
 ふわりと溶けていく白いそれに目を細め、震えのなくなった体を保護する男物のマフラーに触れる。
 返さなくては。約束を反故にするつもりはなかったが、また会わざるをえなくなった。


「……」


 鞄から覗くバラが痛いほど鮮やかな色をして目に刺さる。
 踵を返し帰路につきながら、体を取り巻くぬくもりにじわりと胸に何かが滲んだ。

 ひじりは感情を失くしたわけではない。ちゃんと嬉しいと思う心はある。ただ、出し方を忘れてしまっただけ。眠りについているだけ。
 それが今、僅かながら滲み出ようとしている。“人形”の顔に、“人間”が滲む。快斗がバラを出したように、いとも簡単に。


(……不思議な子…)


 ちらりと雑踏を振り返る。もう彼の背は見えなくて、前に視線を戻した。
 目を細めると同時、ほんの僅かに唇が動く。それは無意識で、笑みと言うには、あまりにも小さすぎた。
 デートか。楽しみかもしれない。ぽつりと思い、ひじりはマフラーに顔を埋めてひと言呟いた。


「……あたたかい」






 top