「行ってくる」

「行ってきます、ひじりお姉ちゃん!」

「行ってらっしゃい、2人共。気をつけて」

「ああ。ひじりも気をつけろよ」


 もう習慣になったやり取りを交わし、新一と新一を迎えに来た蘭は学校へ行くべく家を出た。それを見送り、踵を返してリビングへ入る。朝食の片付けを終え、洗濯の合間に掃除をする。
 洗濯物を干してひと息つき、新一に持たせたものと同じ弁当と勉強道具を詰めた鞄を持って家を出た。
 朝と言うより昼に近い今の時刻、燦々と地上に熱を降り注ぐ太陽は南中まで後少し。雲も少なく、気温は低いが今日も天気が良い。お出掛け日和だ。





□ 人形が見る夢 7 □





 阿笠博士が作ってくれた、ローラーが仕込まれた靴で歩道を歩く。
 年単位の引きこもりの弊害は大きい。まず、体力がなく長時間の移動がもたない。


「…ふぅ」


 ひじりは小さく白い息をつくと公園に入った。いつもは図書館までもつのだが、今日は調子があまり良くない。
 日陰のベンチに腰掛けるとふいに遊具の近くで子供の壁ができているのが見え、その中心にいる人間を目にして軽く目を瞠った。


(……新一…?)


 見知った顔が楽しそうに笑って腕を振る。すると軽く小さな音がして、どこからともなく白い鳩が現れる。子供が歓声を上げると、その声に驚いたのか合図でもあったのか、鳩は大きく翼を広げて青空へと羽ばたいた。
 その様子を見ながら、新一はマジシャンだったのかと思ったとき、ふいに飛び去ったはずの鳩が右隣に降り立ち、鳩と少年を交互に見やると少年と目が合った。瞬間、違うと直感が囁く。あれは新一ではない。よくよく見ると癖っ毛で、新一というより誰か、別の人間に似ている。

 さて誰だっただろうと考える。古い記憶ではないと思うが、新しい記憶の中にいる人間は多くない。
 じっと見つめて記憶を探っていると、少年が大きく目を見開いた。呆然としている様子の彼に首を傾げる。あちらも自分を知っているのだろうか。少年は子供に引っ張られて我に返ったようで、ひじりから視線を子供へと移す。


「……?」


 ふと、腕にやわらかな感触がして視線を下げてみれば、白くきれいな毛並みをした鳩が頭をこすりつけている。人に慣れているのか、手を伸ばして背を撫でても逃げることはなく、それどころか気持ち良さそうに身を屈めた。今はリビングのソファで丸くなっているだろう猫を思い浮かべて目許に笑みが滲む。


「すごいな」


 少年が近づいて来ていたのは知っていたのでそのことには驚かず、けれど新一と声が似ていることには驚いた。だが表情には一切出ず、見上げた先、穏やかな笑みを湛えた少年をひじりは無言で見上げる。少年に「隣、いいですか」と問われて頷く。
 主人に気づいた鳩がひじりを見向きもせず少年の膝にのり、少年が優しく撫でると目を閉じて身を任せる鳩の様子を見て、ああいい人なのだなと内心で呟いた。


「こいつ、あんまり人に懐かないんですよ」

「……そうですか」

「オレ以外に懐いたのは、お姉さんが初めてです」


 にっこりと少年が笑い、ひじりは無表情を返す。すると大抵相手は困った顔をするのが常なのだが、少年はにこにこと笑みを崩さない。
 左手を閉じて開けば、鳩の餌だろうか、小さな粒が少年の手に収まっていた。鳩が顔を寄せて啄む。その、何気ない手品がふとキッドとかぶって、ひじりは一瞬動きを止めた。
 ああそうだ。確かキッドも、少年のような声をしていた。もう少し大人びてはいたが。


(……まさか、ね…)


 目の前の少年とキッドを繋ごうとして、ひじりはやめた。証拠の有無が問題ではない。名も知らぬ少年を似ているからと、それだけで疑うのが嫌だった。


「はい」


 じっと見ていたのを勘違いしたのか、少年がふいに左手をひじりへ伸ばす。その手にはまだ半分は残った餌。少年を見れば笑っていて、「あげてみませんか」と言った。
 ひじりが返事もなく鳩と少年を交互に見る。少年は笑っている。鳩は物欲しそうに見てくる。


「…………」


 ひじりはゆっくりと手を差し出した。少年がひじりの手に餌を全て落とす。少年の膝から頭をのり出す鳩の前に手をやれば、警戒もなく啄みはじめた。時々嘴が手の平を突くが、痛くはない。
 鳩に手ずから餌をあげるという初めての体験に目を細める。それに、ひじりは気づかなかったが、少年は嬉しそうに笑った。

 やがて鳩が餌を食べ終え、満足した様子で少年の差し出した人差し指と嘴を触れ合う。少年と鳩がほぼ同時にひじりを向いたので、もしかして同じことをしろというのかと思いながら、待っている鳩の嘴に指を伸ばした。
 ちょんと軽く触れ、満足したらしい鳩は羽を広げるとばさりと音を立てて飛び立った。
 それを2人で見送り、ひじりはふと腕にはめた時計を見た。11時25分。昼には少し早い時間だ。
 だが、隣に座ったままの少年が、今度は手品を使わずショルダーバッグからパンを取り出して食べ始めたのを見て、立ち去るのもなんだし、まぁいいかとひじりも少し早い昼食をとることに決めた。


「……お姉さんは、動物は好き?」


 無言の食事中に、ふいにそんな問いが隣から放たれた。ひじりは少年を見るが、少年はまだ公園に少し残っている子供達を見ている。


「…嫌いじゃ、ない」

「そっか。オレは何羽か鳩を飼ってるんですけど、お姉さんは何か飼ってます?」


 ぱくりとメロンパンを齧って少年がひじりを向く。少年がかけた問いに、猫を1匹、と抑揚なく答えるひじりに、どんな種類?と更に少年は問う。


「分からない。野良だったから。でも、アメショーの模様と同じだから、アメショーかもしれない」

「へぇ。名前は?」

「……まだ、ない」


 困ったようにぽつりとこぼすと、少年は噴き出して笑った。その明るく屈託の無い笑顔に、ひじりの表情も無表情ながら幾分かやわらぐ。
 だがあまりにケラケラとおかしそうに笑うから、ひじりは候補はあるんだけどね、とこぼした。すると少年は笑うのを止め、興味深そうに目を細める。繰り出される質問は分かっていた。


「秘密」


 だから先制して言えば、少年は一瞬きょとりと目を瞬かせて、そして破顔する。笑ったその顔に、やっぱり違うなとひじりは内心呟いた。
 新一とは似つかない。新一も子供のように笑うことはあっても、少年とはやはりどこか違う。


「じゃあ、代わりにお姉さんの名前を教えてください」

「……工藤 ひじり

ひじり、さん。オレは黒羽 快斗です」


 少年、改め快斗は、ひじりの名をゆっくりと繰り返してそう名乗った。
 普通ならいきなり名前呼びかと眉をひそめるかもしれないが、むしろ苗字を呼ばれなさすぎていたひじりからすれば自然で、疑問に思うこともなかった。
 ひじりは黒羽 快斗、と少年の名を頭の中で呟き、黒羽というワードが記憶に引っかかった。


「黒羽……黒羽 盗一の、親類?」


 黒羽という苗字は珍しいし、加えてマジシャンであるということもあってそう問えば、快斗は軽く目を見開いた。


「……オレのオヤジです。ひじりさんは、オヤジを知っているんですか?」

「有名なマジシャンだったから。小さい頃、会ったこともある」


 呟くように言うひじりの脳裏に、優しい笑顔が浮かぶ。首をほぼ真上に上げてそれを見上げていた自分。ずっと古い記憶の中、盗一はそんなひじりを抱き上げて笑った。
 もう明確に顔は憶えていないけれど、その優しい笑顔だけは、憶えている。


「世間って狭い…」


 思わず呟くと、同意するように快斗が頷いた。その横顔は少し苦笑していたようにも見えたが、ひじりは特に気にはしなかった。
 ひじりはぱくりと卵焼きを食べ、快斗はパンを齧る。暫し無言が続いたが、やはり沈黙を破ったのは快斗だった。


ひじりさんは、これからどこに?」

「図書館。勉強するから。……そういえば、黒羽君は平日なのに、学校は?」

「親父を知ってるんだから、オレのことは快斗って呼んでください。あ、くん、もいりませんから」


 にっこにっこと輝く笑顔で快斗はそう言い放つ。
 絶対父親は口実だよね、と思いながらもひじりは小さく頷いて「じゃあ…快斗」と呼んだ。……何だろう。そんなに嬉しそうな顔をされると、まるで犬に見えるのですが。
 ひじりが脳内でこっそり犬耳と振られる尻尾をつけているとは露知らず、快斗は先程の質問に答えた。


「今日は創立記念日で、学校が休みなんです。オレ、よくあちこち場所を変えてマジックをしているんです。子供達の反応が楽しくて」


 ひじりさんは、と訊かないのは気を遣っているのだろうか。まぁ、大学生と勘違いしているのかもしれない。高校生ぐらいならともかく、成人に近いひじりなら特に奇異な目で見られることもあまりない。そうでなくても東京は人が多くて、学校はどうした、と言いたい若者も多いのだが。


「図書館って、この近くにある?」

「うん。大体毎日いるかな」

「勉強熱心なんですね」


 快斗は、オレは勉強あまりしないんでと苦く笑って頭を掻いた。
 ひじりとてあまり勉強は好きではなかったが、これから社会復帰するためには、最低限の知識が必要なのでしているだけだ。高校生の知識は殆どない。代わりにマニアックな、銃の扱いやら毒物やら人体の急所やら日常生活には不必要な知識ばかりだ。

 遅れている分を独学で取り戻すのは厳しい。家庭教師を雇ったり学校に通うという選択肢もあったが、何となく踏み切れないでいる。とりあえずは独学でできるところまでやって、どうしても無理そうなら、ということを赤井達には伝えてあった。暇があれば彼らが教えてやると言っていたものの、忙しい中暇を捻出されるとさすがに心苦しいので今のところ頼んだことはない。

 弁当を食べ終えて鞄に仕舞い、水筒に入れたお茶を飲む。さて、とひじりが立ち上がれば、快斗も立ち上がった。
 このまま別れてさよなら、また会えたときに、とばかり思っていたひじりは、にっこり笑って放たれた快斗の言葉に思わず目を見開いた。


「暇だし、オレもご一緒させてください、ひじりさん」






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