荷物を整理して何もなかった部屋を整え、有希子に改めて礼の電話をして猫をケースから出し、思ったより早く終わったお昼時に4人で外食を済ませ、新一と蘭との5年間を聞きながら思い出話に興じた。
 なぜか4人で買い物に出ることになり、優作は仕事のため離れ、手伝ってくれた蘭を入れて夕食をとり、デザートにはレモンパイを。

 翌日、新一と蘭は学校へ。蘭は毎日顔を出してくれる。
 掃除や洗濯など家事をこなして新一と同じ弁当を昼食にし、あいた時間は勉強したり適当に本を読んだり。新一が帰ってくれば夕食の準備を始め、夕食後にはリビングでテレビを観たり、昼間の勉強で分からなかったところを新一に聞いて教えてもらう。

 かつて世話になっていた、隣に住んでいる阿笠博士に挨拶に顔を出せば泣いて喜ばれ、5年間の引きこもり生活で弱った足腰を補強してくれる靴などを快く造ってくれた。
 蘭と彼女の母親である現在別居中の妃 英理とも再会し、ひじりの生還を喜んでくれた彼女は弁護士として力になると約束してくれた。

 おかえりと、懐かしい面々は口を揃えて言う。帰って来て嬉しい、また生きて会えて嬉しいと涙を浮かばせて誰もが言う。
 ありがたいと思う。嬉しいと思う。あたたかな眼差しにじわりと胸の内が熱くなる。

 けれどどうしても、ただいま、と言うことができずにいる。





□ 人形が見る夢 5 □





 工藤邸で世話になり始めて1週間が経った。まだまだ外に出掛けるには新一と蘭が主に付き添い1人になる機会はなかなかないが、それでも彼らが学校にいる間はひじりは1人になる。一応出掛ける際には新一と博士に報せることになっており、それに従って今日もひじりは駅前の喫茶店に行くことをメールした。

 昼過ぎなこともあり、がやがやと店内は人で溢れている。端の席で壁際に座りながら温かいココアを飲んでいた彼女は、それを再び口にする前に目の前に座る男をちらりと見た。男は整った顔をひじりに向けているがその目は冷ややかで、嘲るようにゆったりと口の端を吊り上げた。


「だがお前は、そう言えない理由を分かっているんだろう?」


 ただいまと言うことができない。そう言ったひじりに対して返された言葉に、小さく頷いた。感情のない表情は揺らぐことはなく、私は“人形”ですからと決まり文句のような言葉を淀みなく吐く。


「赤井さん、あなた達が彼を捕まえるか、私が“人形”として檻に戻るか。前者が現実とならない限り、私はずっと言えないままでしょうね」


 赤井と呼ばれた男はふんと鼻を鳴らしブラックコーヒーをすする。雑踏に紛れた空間で、2人は無表情に向き合ったまま暫くカップに口をつけるだけでいた。


「今のところ、お前の周辺には何の陰もない」


 ふいにぽつりと呟かれた言葉を正確に捉え、聞き返すこともなくそうですかと返す。


「私は、いつまであなた達の“餌”でいるのでしょう」

「少なくとも、お前が完全に切り捨てられたと確認できるまでだな。だが長く傍に置いたんだ、そう簡単に諦めるとは思わん」


 ひとり言のつもりだった呟きに即座に赤井が返し、少ない言葉に隠された意味までひじりは捉える。
 切り捨てられるまで。彼がひじりを、“人形”を手元に戻すのを諦めるまで。あるいは殺されるまで。だがその可能性は高くはないだろうと赤井は分析する。だからこそ、ひじりを“餌”としている。

 赤井は聞かれてもいいようにか、ひじりほど明確に物事を口にしない。ひじりとてぼかしてはいるが少々物騒で、だが赤井は捉え方によってはどうとでもなるような言い方だ。そのアンバランスな会話に、しかし人でごった返す店内は誰も目を向けない。


「友好関係には気をつけることだな」


 短い言葉の後には、どうなるか分からんぞと忠告する言葉が視線で続く。ひじり自身は護られていても、その周囲にいる人間を巻きこむかもしれない。自分のせいで命を落とすかもしれない。
 だがひじりは積極的に他人に関わろうとはしないつもりなので、その辺りをあまり深く考えていない。“人形”としての自分が、考えることや気を向けることを無意識に制限していた。

 沈黙が落ち、傾ければ底が見えるほどまでココアを減らしたときにピリリと携帯電話が鳴った。ポケットから取り出した白い二つ折りのそれはひじりのもので、初期設定のままの音を鳴らしながら少しの間震えて止まる。
 小さな窓がちかちか光ってメールの着信を知らせる。差出人は新一だった。


「……お前は“餌”だ。それは変わらん」

「?」


 携帯電話から目を離して赤井を見る。彼もひじり同様白い機械を見下ろして、ついと鋭い目をひじりへと移した。
 冷ややかなその目が記憶の彼とかぶる。けれど色が違う。玲瓏たる光を宿した深緑の目が浮かんで消えた。


「だが“人形”をやめれば、それで変わるものもあるだろう」


 意味深な言葉の裏を読み取ろうとして、ひじりは無意識に考えることをやめた。
 “人形”をやめる。人間を取り戻していく。人間へ、1人の女へ還る。それが何を意味するのか、まだ考えたくはなかった。
 自分は“人形”だ。彼のものだ。この首には首輪がはめられ、切れた鎖の先には彼がいる。恐らく自分はもう一度彼に会いたいのだろうけれど、そこへ戻るか否かの選択肢は、ひじりにはない。

 無表情で黙りこんだひじりを一瞥し、無言でイスを引いて立ち上がった赤井は「次は2週間後だ」と端的な言葉を残して店を出て行った。やはり誰もそれを目に留めない。ひじりもそれを目で追うことはせず、冷めてぬるいココアをゆっくりすする。


(私は“人形”で、“餌”で。それだけだ)


 自分の存在を胸の内で呟き、そっと息をつく。
 1週間後には、彼からメールが届くだろう。日時と待ち合わせ場所だけの短いそれ。世話になっている家の事情を考慮して平日を指定してくるだろうが、一応そこだけはあけておかなければ。

 ひじりは彼らから与えられた、発信機の埋めこまれた携帯電話を見下ろす。
 定期的に連絡を取る。彼らはひじりの行動を制限しない代わりに、ただひとつ条件をつけた。それが何の意味をなすのか、考える必要はない。ただの生存確認だろう。今回のように短い雑談で終わる。
 何かあれば――― たとえば自分を誘拐した男のような人間が現れたときの報告も義務付けられていない。そもそも報告するようなことは彼らも把握しているだろうから、する必要もないだろう。

 ココアを飲み干したひじりは携帯電話を開きメールを開いた。送信者は新一。内容は「ヘリに乗りたくないか?」。唐突すぎるし説明もない。


(これは新一が帰って来てからでいいか…)


 送って来たのは休み時間でも今の時間は授業中だろうし、まさか今日ヘリに乗るわけでもないだろう。そう思いはするものの、空白期間があるとは言え、幼い頃から新一を見ていたひじりは否定しきれない。新一と蘭から話を聞く限り2人共そう変わっていないようだし、ありえないわけではない。
 乗りたくないか、と訊かれれば乗りたくないわけではないが乗る理由もないし特に興味もない。それよりも、と雑踏に耳を澄ませて口の端に上がる声を聞く。

 キッド。時計台。盗む。今夜。

 そういえばそういうニュースが今朝流れていて新聞にも載っていたような。
 新一は「泥棒には興味ねぇ」と言葉通り気にする様子もなく流していたが、ひじりとしてはヘリよりそちらに気を引かれる。だが新一達が人が大勢いるところに行くことを許しはしないだろうから諦めるしかない。テレビ放映もされるようだからそれを観るか。
 イスから立ち上がって紙でできたカップを捨て、店を出る。途端冷たい空気にさらされ、少しだけ体を震わせたひじりは顔を照らす太陽に目を細めた。

 白いマントが記憶の中で翻る。満月を背にした彼は口元に微笑みを浮かべていた。闇夜を裂く白が伸ばした手に自分の手を重ねることはなく、ただひとつ、一方的な約束と問いを口にしたのだ。


(……キッド)


 小さく小さく、ひじりがそれを心の中で呟いたことを自覚できないほど小さく呟かれた人物から目を逸らすように、ひじりは一度固く目を閉じた。






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