季節はまだまだ冬のため朝の気温は低く、吐いた息は白い。
 厚手のスリッパを履いた足を淀みなく進め、古い記憶の中の通りに廊下を歩いてひとつの部屋に辿り着く。そのままドアノブに手をやり、僅かに動きを止めるとコンコンとノックをする。返事はなかった。

 ドアを開ける。本棚と机くらいしかないシンプルながらも生活感のある部屋の中、窓辺のベッドに視線を向けてそちらへ向かう。
 部屋の主は起きない。敷かれたカーペットで消えた足音はベッドの上で眠りこける少年を起こすことはなく、何の障害もなくベッドに辿り着いた彼女は少年の寝顔を覗きこむと声をかけた。


「新一、朝だよ。朝ご飯、一緒に食べるんでしょ」

「ん…う?……ひじり…?あれ……夢…?」

「夢じゃないよ。ほら、起きて」


 僅かに目を開けた少年のぼんやりとした目が自分を映す。
 相変わらずの無表情。それでも少年は眠気にくもった目でそれに焦点に合わせると、瞬間大きく目を見開いて飛び起きた。





□ 人形が見る夢 4 □





 新一を起こして優作の待つリビングへ足を踏み入れたひじりは、途中顔を洗いに洗面所に行き、戻って来た新一に背中を凝視されているのを分かっていながら気にすることなく朝食の準備を進めていた。
 本当は和食あたりでも作りたかったのだが、ほぼ一人暮らしの新一に炊事能力はあまり備わっておらず、インスタントやパン、それと米くらいしかなかったので、朝食はトーストとコーンスープ、カリカリに焼いたベーコンとスクランブルエッグという簡単なものだ。
 昨日の夕食は蘭と小五郎も誘っての外食だったので冷蔵庫の中を見る機会はなく、今日届く予定の荷物を預かったら買い物に出る必要があるだろう。


「どうぞ」

「……ありがと……その、手際、良いな」

「ありがとう」


 優作と新一の前に朝食が載った皿を置き、てきぱきと調理していたひじりに何か聞きたげながらも言葉を濁らせた新一にひじりも素知らぬふりをして礼を言う。
 自分の前にも皿を置き、新聞をたたんだ優作を合図に3人が揃って手を合わせた。

 新一が聞きたげだったことをひじりは分かっている。だがひじりは、自分を檻から出した彼ら以外には言っていないし言うつもりもない。
 確かに自分は誘拐されたが、自ら檻に留まり逃げ出すことをしなかったということを。だから身の回りのことや食事を作ることをほぼ毎日していたお陰で、実は料理スキルが高いのだということも。


(監禁と言うより軟禁……いや、あれは制限のつけられた専業主婦みたいなものか)


 焼いたパンにバターを塗って口に入れればさくりと小気味良い音がする。ベーコンも程よく焼けていておいしい。簡単だったがうまくできたことに軽く満足しながらぼんやり誘拐されていた間のことを思う。

 閉じ込められていた檻の鍵を開けることは容易で、見張りはなく、料理をするのだから包丁も手にできた。
 それでも逃げなかった。その選択肢は、あの事件の夜に自ら棄てたのだ。この首に首輪をはめ、鎖に繋いだのは自分だったのだから。
 優作は聡く、その息子である新一も頭が切れるから、いずれこのことに気づくだろう。けれどそれを隠すようなことはしない。言わないだけで、答えないだけで。


「そうだ新一、今日は午前中に荷物が来ることになっているからな」

「荷物?」

ひじり君のものだ。女の子は何かと入り用だろう。有希子が選んだからだいぶ多くてな…手伝ってあげなさい」

「分かった」


 息子ながら母親の性格は熟知しているようで、頷いた顔はげんなりとしていた。
 ごめんね、お願い。さすがに1人で片づけるには難しいと分かっているのでそう頼めば苦笑を浮かべられ、しかしひじりは思い出したように「あ」と声を出す。


「そういえば、新一は今日学校じゃなかったっけ」

「いいって。1日くらい何てことねぇし、そんなこと気にすんじゃねぇよ」


 昨日は日曜だったので今日は月曜。平日のため当然学生は学校だが、新一は悩む様子もなく学校をサボることにしたようだった。
 優作も手伝えと言ったのだから当然学校を休ませるつもりだったようで、学校には私から連絡しておこう、と笑う。自分のせいで学校をサボらせるのは少々心苦しいものの、言い出したら聞かない2人なので厚意を素直に受け取ることにした。


「ごめん、お願いするね」

「夕食、楽しみにしてるから」

「分かった」


 新一の言葉にデザートもつけようと思いながら頷けば嬉しそうな顔をされた。
 さて、買い物に出るタイミングはいつ頃になるかと思案する。昼食を付け加えなかったのは、荷物整理で昼が潰れてしまう可能性が高いからだ。まさか2人を置いて買い物に行けないし行かせてもらえもしないだろうから、昼食は出前か少し遅れた外食になるだろう。
 頭の中で献立と必要な食材を思い浮かべながら、ひじりは少し冷えたコーンスープをすすった。






ひじりお姉ちゃんの荷物の整理?わたしも手伝う!」


 登校時間となり「ひじりお姉ちゃんに会いに来たよ!」と満面の笑みで工藤家にやって来た蘭は、制服ではなく私服のままの新一に首を傾げ、事情を聞いた途端そう言うと返事を聞かないまま家に走って戻り、動きやすい私服に着替えて再びやって来た。その早業に、ひじり達は断るタイミングを完全に逃して家に招き入れた。
 優作はぽかんとする新一とひじりの後ろでくつくつと喉を鳴らして笑っていたが、反対するつもりはないようだ。
 そうこうしているうちに荷物が届き、一番先に渡されたキャリーケースをひじりが受け取ると、ひょいと新一が覗きこむ。


ひじり、何だそれ?……猫?」

「うん。一緒に助け出された子」


 荷物整理があるのでもう暫くはケースの中だが、奥の方で丸まって寝ている猫は気にした様子もなく惰眠を貪っている。
 灰色を基調とした黒の縞模様。アメリカンショートヘアーのそれによく似ているが、色は薄めなので雑種とのミックスだろう。


「こいつの名前は?」

「……まだない」

「つけてねぇのかよ」

「すぐ捨てられると思ってたから」


 飼い主達の会話に耳を時折動かしながらも起き上がらない猫を見ながらケースのふちを撫でる。
 そう、外に出た際に仔猫だった時分の猫を思わず連れてきてしまい、いつ彼に捨てられるか分からず、あまり情をこめないようにしようと名前はつけずにいた。まさか一緒に檻から出るとも思っていなかったのだ。
 新一はもう一度まじまじとケースの奥にいる猫を見て、顔が見えないことに眉をひそめる。


「こいつオス?メス?」

「オス」

「んー…じゃあワトソンとか」

「にぃ」


 少し考えるようにして提案された新一らしい名前に、ひじりが何を言う前に何だか不満そうな声が返される。
 音源を見れば先程まで寝こけていた猫が顔を上げて新一を睨んでいて、何だダメかよ、と新一が声をかければふいっと顔をそらされた。気に入らなかったらしい。


「ホームズとか、乱歩とか、じゃあコナンは?明智とか」

「新一…」


 次々提案される探偵や推理小説家の名前にひじりは呆れ、猫はじとっと半眼で新一を睨めつける。その猫らしからぬ鋭い睨みに怯んだ新一が「…だめか…」と肩を落として残念そうに呟く。にぃと釘を刺すように短く猫が鳴いた。


「……まあ、そのうち何か気に入るのをつけるよ」


 それで会話を切り、再び眠りにつく猫から視線を外す。
 まだまだ荷物は運びこまれている。最初は笑顔だった蘭も、段ボールが10個目となるとさすがに引き攣っていた。ひじりは知っていたため驚かず、新一は母親を思い出してため息をつく。


「どんだけあるんだよ…」

「衣類と、化粧品とかと、カーペットやクッション、カーテンとかも選んでたから、まだあるかも。あと鞄に靴にアクセサリーなんかもあったような…?」


 買い物はほぼ有希子に任せていたため、ひじりすら正確に把握していない。しかしどんどん運び込まれてくる荷物に連れ回されなくて本当によかったとしみじみ思う。
 与えられた客室の一間がひじりの部屋として宛がわれたが、一般家庭の子供部屋より大きくて収納もあるのだから客間とは呼べないのではないかと思考を飛ばす。お陰で大量の荷物の置き場には困らないだろうが。ああそうだ、猫ちゃんのも買わなきゃね!とか言っていたから、一部はまだ名づけられていない猫のものもあるのだ。
 結局運び込まれた段ボールは20個あたりで数えるのをやめ、業者が帰ってからひじりの部屋に入った4人は、口を閉じるガムテープに手をかけた。






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