ぼろぼろとこぼれる涙はとめどなく、拭われることもなく床を濡らす。濡れる瞳を揺らしながらも決して目をそらさない彼女の頬に手を伸ばして、ゆっくりと涙を拭った。その生きた人間の体温を感じ、確かにひじりが目の前にいるのだと知った彼女は、縋りつくように胸に飛びこむと嗚咽をもらした。


「おかえり…おかえり、なさい、ひじりお姉ちゃん…!」

「…うん。心配をかけてごめん、蘭」

「――――!」


 しわになるくらい服をきつく握りしめる彼女の背に腕を回し、新一にしたように叩いて撫でる。すれば堰を切ったように更に涙を溢れさせて、記憶よりずっと大人に近づいた少女は子供のように声を上げて泣いた。





□ 人形が見る夢 3 □





 ようやく落ち着き、赤く腫らした目許に濡れタオルを当てている蘭は、しかしその左手でぎゅっとひじりの服の裾を掴んでいる。ひじりは何も言わず振り払うこともなく受け止め、出されたお茶が入ったコップに口をつけた。
 低いテーブルを挟んだ向かいには蘭の父親である小五郎が座り、ひじりの左手側の側面に新一が座っている。小五郎はお茶をひと口飲むと深々とため息をついた。


「まさか、優哉ゆうやんとこの嬢ちゃんが生きて帰って来るとはな……本当に良かった……」


 工藤 優哉。それが父親の名前で、小五郎もまたひじりの父と友人だった。とは言え付き合いは蘭を通して結ばれたものだったので、優作との縁の方が深い。それでも、こうしてひじりの生還を涙目で喜んでくれるだけの仲だ。


「新聞で読んで、まさかとは思ってたんだ。まだ犯人は捕まってないんだろ?俺も力になるから、何かあったらすぐ言うんだぞ」

「はい。ありがとうございます」


 やはり小五郎は大人らしくひじりの空白の5年を問うことはせず、素直に頷いたひじりに本当に良かったともう一度呟く。すると鼻をすする音が聞こえて、目許からタオルを離した蘭は「わたしも」と少し掠れた声で言う。


「わたしも、ひじりお姉ちゃんを護るよ。わたしね、空手始めたの。ひじりお姉ちゃんが帰ってきたとき、護れるようにって」


 目許は赤く、瞳に涙の膜が張ってあっていたが、途切れ途切れの言葉には固い意志がこもっている。
 これでもずっと強くなったの。もう護られてばかりだった子供じゃないの。ひじりお姉ちゃんを護れるよ。ぽつぽつとそう続け、服の裾を掴む手に力をこめた蘭を見下ろし、ほんの少し申し訳なくなる。
 事件は幼かった少女の心を抉っただろう。ずっと仲良くしていた大好きな人の家族が家と共に燃え、ひじりは行方不明となった。何もできない自分が悔しくて涙をこぼしたのだろう。けれどひじりが帰って来るのを信じて、今度は自分が護れるようにと力をつけた。


「……ありがとう、蘭」


 その想いが嬉しくて、そっと囁き蘭の頭を撫でる。また涙がこぼれそうになったのをぐっと耐え、蘭は精一杯の笑みを浮かべてみせた。


「それで……これから、どうするんだ?」


 ふいに小五郎が問い、ひじりは新一に答えたものと同じ答えを返す。
 暫く――― ひじりの安全が約束されるまでは工藤家に厄介になり、遅れた勉学は独学で取り戻す。これからのことは、ゆっくり考えることにする。そう言えば小五郎は「それがいいだろうな」と頷いた。


「暇になったら遊びにでも来い。話し相手くらいにはなってやる」

「わたしも遊びに行くからね!あとこっちに泊まりにも来て!新一ばっかりずるいもの」

「おい…何がどうずるいんだよ」

ひじりお姉ちゃんを独占するなってこと!」

「べっ、別にしねぇよ!こうして連れて来ただろが!」

「連れて来るのは当然でしょ!」


 調子を取り戻してきたようで、蘭は新一にべっと舌を出す。喧嘩腰ではあるものの2人は昔からこうで、それでも仲が良いのは分かっている。


「まあまあ、喧嘩はしないで」

「……」

「……」


 懐かしいと思い、記憶のままに2人の間に割って入って仲裁をする。そうすれば新一と蘭は揃ってひじりを見、5年前もこうだったのを思い出したのだろう、2人は顔を見合わせると嬉しそうに破顔した。


「ほんっとお前ら、ひじりのこと好きだよなぁ」


 ひじりが仲裁すればぴたりと喧嘩をやめるのは昔から。小五郎は呆れたようにため息をついて変わらない3人を眺めたままお茶をすすった。


「ったりめーだ」

「当然でしょ、お父さん!」


 生意気に拍車がかかりつつある新一も年頃らしく強い口調でたしなめてくる蘭も、揃って素直に頷く。
 小五郎はそれを見ながらもうひとつため息をついて、しかし心の中ではほっと安堵の息をついた。

 ――― 5年前、一家が死にひじりが行方不明と知らされたとき、2人は長い時間泣いていた。
 ひじりお姉ちゃんがいないの。どこに行ったの?ねぇお父さん、ひじりお姉ちゃんは?幼かった蘭はそう言って毎日のように泣いては家を飛び出し燃え尽きたひじりの家へ行き、よく一緒に遊んだ公園や店をさまよい歩いてひじりがいなくなったことを認めようとはしなかった。
 蘭より早くひじりがいないことを受け止めた新一がそれを止め、ひじりはもういない、いるもん!、そう言い合って怒鳴り合う喧嘩をして、それを仲裁する者がいないことに気づいてまた2人は泣いた。

 年月が経つと共に徐々に落ち着き、蘭は力をつけるのだと空手を始め、新一はひじりを見つけるのだと頭脳を磨いた。
 たまに喧嘩をして、ひじりがいないことに心を痛め続けて、それでも2人は一緒にい続けた。ひじりが帰って来たとき、すぐ分かるように。また喧嘩を止めてもらうために。

 新一と蘭はそのことを決して口にすることはなかったが、生まれてからずっと見てきたのだ、小五郎とて父であるのでそれくらい見抜けないはずがなかった。
 愚かだと。馬鹿らしいと、盲目的に帰りを待つ2人にもう忘れろと言うことは、できなかった。


(本当は俺も、これを見たかったしなぁ…)


 5年が経ち、さすがにもう生きてはいないだろうと大人である分諦めるのが早かったが、生きて帰って来ることを願ってはいた。
 幼馴染2人はすごくいい顔をしている。ひじりは表情こそ消えてしまったものの、生きて帰って来たのだから何も言うまい。ゆっくり休んで、人と触れ合って。そうしたらきっと、以前のように笑ってくれる日もくるだろう。


「そうだひじりお姉ちゃん、今度の休みにショッピングしない?」

「バーロォ蘭、ひじりに無理させんじゃねぇよ」

「私は構わないよ。長くは付き合えないかもしれないけど、私も街を見て回りたい」

「じゃあ約束ね!新一は来なくてもいいよーだ!」

「なっ…ぐぬぬ」

「新一も行く?」

「…………行く」


 再会して早速約束を取りつけた蘭と自分から行くとは言えず悔しがる新一の間で、慣れた様子でひじりが新一を誘う。ひじりにだけは新一はとても素直で、頷いた新一に蘭はひじりの腕に抱きつきながら楽しそうに笑う。
 小五郎は目を細めて唇を緩め、穏やかな3人の様子を肴にゆったりとお茶を飲み干した。






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