「そのくらいにして、とりあえずお茶を飲まないか」

「!」


 少し経って、優作がそう声をかければ弾かれたように新一はひじりから体を離した。赤い目許を濡らす涙を袖で乱暴に拭い、じろりと物言いたげに優作を睨む。
 息子からの睥睨をさらりと流し、優作は意地の悪い笑みを浮かべた。


「サプライズだ」


 更に眉を寄せた新一の視線も何のその、ひじりを促した優作はさっさとリビングへ足を進める。ひじりもそれを追い、父の背中を睨んでいた新一を振り返ると声をかける。


「行こう」


 昔よくしていたように手を差し出す。目を瞬いた新一はひじりの顔と差し出された手を交互に見て、触れると消えるんじゃないかとばかりに、ゆっくり手を取った。





□ 人形が見る夢 2 □





 それぞれの前に、優作手ずから淹れられた紅茶が置かれる。ふわりと湯気を揺らす琥珀色のそれに口をつけ、おいしいですとこぼせば嬉しそうに微笑まれた。


「……それで?本当にひじりはこの家に住むのか?」

「ああ」


 まだ目許を赤くした新一の問いに頷いたのは優作で、明日にでもひじりの荷物が届くと付け加える。
 新一の隣の席に腰かけながら、これからよろしくと言えば泣いた手前恥ずかしいのかふいと顔をそらされて頷かれる。それを見て、正面に座った優作がからかうように口を開いた。


「何だ新一、嬉しいなら嬉しいと素直に言ったらどうだ?」

「う、うっせ!べっ、別に…嬉しくないわけではない……」

「嫌なら、すぐに出て行くよ?」

ダメだ!あっ、いや、その……い、いてください」

「うん」


 ひじりの言葉を即座に却下し、尻すぼみになりながらもお願いされ、素直に頷く。
 遺されたお金は暫く遊んで暮らせる程度にはあるから望まれなければ出て行くつもりだったが、新一は迎え入れてくれるようなので言葉に甘えることにする。
 そんな2人のやりとりを微笑ましそうに眺める優作に気づいて新一が軽く睨み、紅茶に口をつける。勢いよくすすったのか「あちっ」とすぐに離したが。


「私は明日の夕方には戻らねばならないからな。新一、しっかりひじり君をサポートしてあげなさい」

「ああ、分かった」


 常識はあるがそれは5年前までのもので、目まぐるしく移り変わる社会に若干ひじりは置いて行かれている。そう気遣っての優作の発言を正確に受け取り、しっかりと頷く新一を向いてお願いねと軽く頭を下げる。


「でもよ、学校はどうすんだ?高校、行くのか?」

「ううん。暫くは独学で何とかする」

「そっか」


 納得したように頷きながらも少し残念そうなのは、もしかしたら同じ高校に通えるかもしれなかったからだろう。
 ひじりは5年も誘拐されていたため高等教育は受けていないが、元々賢いこともあり独学で最低限の学力を取り戻すことはできる。それと誰にも言ってはいないが、誘拐先で色々な知識を詰め込まれていたので、だいぶ偏りはあるがその辺の大学生よりずっと造詣が深い。
 大学を受けるかどうか、それは考えていない。自分を誘拐した犯人は捕まっていないから何があるか分からないため、進学先に迷惑をかけるわけにもいかない。
 まずはゆっくり休息をという表向きの理由で暫くひじりを泳がせるつもりなので、少なくともひじりの安全が確証されてから進学も就職も考えるようにしている。


「何か分からないことがあったらオレに言うんだぞ」

「うん」

「まあ新一より私に聞いた方が確実だがな?」

「はい」

「父さん…!」


 横から口を出してきた優作を新一が恨みがましそうに睨む。しかし睨まれた本人は飄々と紅茶を口にしていて、ひじりが素直に頷いたのもあり悔しそうにため息をついた。
 そうして沈黙が降り、新一がちらりとひじりを見る。紅茶を飲み干したひじりは向けられる視線を一瞥し、優作を見た。優作が頷く。2人のアイコンタクトに新一がムッと口を尖らせるも2人が気にすることはなく、ひじりはカップをソーサーに置いてゆっくりと口を開いた。


「5年、私がどこで何をしてたのか、聞きたい?」

「えっ…教えてくれんのか?」

「事件の犯人は、お父さんの再婚相手だった人が雇った人で、長い髪をした男。誘拐された先は判らない」


 淡々と告げられる範囲のことを口にする。
 嘘ではない。けれど真実でもない。優作にもこれ以上の情報は与えられていない。突っ込まれても事件のショックであまり憶えていないと言えばそれまでだ。
 視線をそらして口を噤めば、ひじりが若いこともあって口にできないことをされたのだろうと気遣ってくれる。
 男が若い女を攫った。それだけで大体の人間は察する。


「……ごめん、嫌なことを思い出させたか?」

「別に、気にしないで」


 案の定新一は申し訳なさそうに眉を下げ、気遣わしげにひじりを見やる。それに自分も気にしてないのだと偽りない気持ちを言葉の裏に返すが、淡々とした声音や揺らがない表情に新一は視線を落とした。
 彼女が――― ひじりが、かつて5年前はよく笑う少女だったことを知っているからだ。溌溂として喜怒哀楽をはっきり表に出す子供だったのだと、新一は知っている。


ひじりが帰って来てくれて、それだけでもう、十分だ」


 感情を表に出す方法は忘れてしまったけれど、こうして生きて隣にいる。また自分を新一と呼んでくれている。それだけでいいと泣き笑いのような顔で言うから、ひじりはうん、と小さく頷いた。


「って待て、犯人はひじりの父さんの再婚相手が雇った奴だと!?」

「そう。私が憎かったみたい。まあ、雇った人に一番に殺されてしまったけど」

「あの女っ…!」


 ぎりっと歯を軋ませた新一が憎々しげに呻く。一家惨殺、ひじり誘拐の全ての原因を恨もうにも、彼女はもうこの世にいない。
 ひじりの父親の再婚相手――― 継母は、ひじりが憎かったらしい。最愛の夫の、血が繋がらない娘。自分と夫と半分ずつ血を分けた息子とで完璧な“家族”をつくるには、ひじりが邪魔だった。だから排除しようと思った。ひじりさえいなければ自分は本当に幸せになる。盲目的にそれを信じて、狂った先で死んだ女。
 ひじりは少しずつ憎悪を積もらせていく継母に気づいていた。だから高校は寮のあるところを選んで家を出るつもりであったのだけど、間に合わなかった。新一も気づいていたのだろう。けれどまさか人を雇ってまで、殺してまで排除しようとは思っていなかった。


「あの人は死んでしまった。可哀相な人だった。恨む意味も理由もない」

「……ひじり

「私は優しくないから、許したわけじゃないよ。けど、もう死んでしまったから。忘れることを復讐にする」


 たったひとりで、死んでいったから。心の中での呟きは表にもれず、冷めた紅茶を飲むことで腹の奥底へ流しこむ。
 新一は納得していないようだったが、故人を悪く言うのもはばかれるのか、唇を歪めてひじりから目をそらした。


「……後で」

「?」

「後で、蘭のとこ行くぞ。あいつも、お前がいなくなって、……泣いてたから」


 無理やり話題を変えた新一に心の中で礼を言い、うんと頷く。
 そうだね、あの子にも会わないと。新一と一緒に後をついて回っていた少女。彼女もきっと、随分と大きくなったのだろう。泣くだろうか。笑っていてほしい。あの子は笑顔がとてもよく似合うから。






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