紹介したい子がいる、と父親から話を聞いたのはつい昨日の話だ。それも、真夜中。
 寝ぼけ眼でかかってきた電話を取ればいきなりそう言われ、ついでに住まわせるときた。それにはさすがに驚いた。「新一も知っている子だ」、だって?そういう問題ではない。
 突然の突拍子もない言動には慣れたと思っていたが、この父親はまだまだ我が子に慣れさせるつもりはないらしい。


「いったいいきなり何なんだよ。そっちで気に入った奴でもいたのか?」


 あくび混じりの息子の問いに、父親は苦く笑ったようで小さな息をもらし、けれど答えはくれなかった。
 明日の午後をあけておいてくれ、と一方的に約束させられて切られた電話。深いため息をついて拒否権はないのかよとぶつくさ言いながら再びベッドにもぐりこんだ。
 明日やってくる、新一の知っている人間。思い浮かぶのは数年前に行方不明になった少女で、しかし記憶に残る残像を掻き消した。


(ありえねぇって……ひじりは、もうずっと見つかってねぇんだぞ?)


 それでも湧き上がる微かな期待を握り潰すように、ぎゅっと固く目を閉じた。





□ 人形が見る夢 1 □





 ひじりは、一定の速度で流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
 助手席でシートベルトを締め、やわらかいシートに腰を下ろした彼女へふいに声がかかる。


ひじり君、喉は渇いていないかい」

「いいえ」


 視線を向けることなく運転席で自らハンドルを握る男に答え、そうか、と返された声を聞き流す。それから暫く沈黙が降り、スピーカーから流れる静かなクラシックだけが響き渡っていた。
 小さな振動と共に車が止まる。赤信号で止まった車内で、景色から運転席の男へとひじりは視線を移した。


「この辺りも変わりましたね」

「そうだな。君が離れてもう5年になるから、仕方がない」


 単純に思ったことを言ったのだが、運転席の男は気遣わしげに苦味を口の端にのせて小さく頷いた。実年齢にしては若く見えるが、深みを増しつつある整った顔がふとひじりを向く。
 優しく細められた瞳に無表情の自分が映る。懐かしむように見られるが、同じように感じているのはひじりも同じだ。

 男は、父親の友人だった。近所に住み、姓名がほぼ同じということで父親と意気投合した男との付き合いも長い。
 世界的に有名な推理小説家。ひじりを狭い檻から連れ出した彼らは、そういった縁の男に預けることにした。
 なぜか。餌として囮として身を晒すことを決めたひじりの護り方――― あるいは使い方として、大きく晒し上げることにしたからだ。


「お前のことは、名前は出さないが新聞に載せる。警察関係者にも、まだ命の危険があることを知らせておく。お前が消えた瞬間、奴らの尻尾を掴むために。お前が自分で言ったように、餌として囮として、使わせてもらう」


 そう冷たい目で言った彼は、まずお前を工藤優作に預けることに決めたと続けた。
 探偵としての一面も見せる工藤優作の庇護下ならば、警察を始め色々な人間と関わることになるだろう。多少の規制はかけるが、マスコミも食いつくかもしれない。そうして人間関係と言う名の鎧に包まれ、ひじりを“人形”としていた者が手を出せば、必ず組織的にも厄介なことになるように。
 だがリスクを考えて、あくまでひじりは表向き、「5年前の事件で誘拐された少女が生還、犯人はまだ捕まっていない」ということになっている。一家を襲い、誘拐した者が彼らが血眼になって探している組織の幹部であることは知らせないことにしているらしい。だから青信号でアクセルを踏んだ優作も、“5年前の事件”の生還者としてひじりを迎えている。


「……ひじり君の家の跡に寄っていくかい?」


 ふとそう問いかけがあって、ひじりは少し考えると首を振った。
 組んだ手の下にある朝刊。読んでみると、まだ19歳の未成年であるひじりの名前はやはり出ていなかった。それでも、調べればすぐに判るだろう。そして新聞によると、かつて自分達が住んでいた家は燃えて廃墟となり、今は空き地となっているらしい。

 証人保護プログラムを受けたことで父親と弟は死亡したことになっているため、一旦祖父母が預かっていた保険金その他や土地は全てひじりに返還されたが、残された家跡地もいずれ処分する必要があるだろうなと冷静に考える。
 ちなみに、渡された通帳は0が多かったがさして驚きはしなかった。

 祖父母にも、接触しないようにしなければならない。遺産を継ぐときに一度だけ会い涙を流して喜んでくれたが、きっと分かっていただろう。一応血縁者には暫く護衛がつくらしいが、父親と弟はもうおらず、ひじりも会わなければ危険は少ない。


「本当に、いいんですか」

「うん?」

「私と関われば、あなたも、あなたのお子さんも、危険な目に遭うかもしれません」


 ひじりが言ったような説明はとうにされていたはずだ。分かっていてもひじりは訊いて、優作は前を向いたまま「ああ」と淀みなく頷いた。


「私達には色んなコネやツテがある。私の方でもこれから君のことで各方面に掛け合うつもりだ。大事な友人の娘である君を始め、私達に何かあれば誘拐犯達もただではすまないだろう。
 ――― それがたとえ、どんな組織でも」


 優作は鋭く聡い。だからきっと、与えられた以上の情報にある程度の予測がついている。
 “5年前の事件”のあと、それこそあらゆる手を尽くして行方不明となったひじりを捜し、一家を惨殺した犯人を血眼で追ったのだと再会したときに聞いた。そして空白の5年に何があったのかを訊かず、事件の犯人逮捕ではなく、ただ君が人間として生きられる道を最優先とする、とも。


「……ありがとうございます」


 たくさんの人達に迷惑をかけている自覚はある。けれど望まない救出をしたのは彼らだ。
 自分は“人形”で餌で囮。自分を覆っていく鎧もまた、望まないもの。けれど檻へ戻りたいと思う心を、伝え聞いた父の言葉が引き止める。
 これからどうなるのか。檻に戻るのか餌として効力を発揮するのかは、分からない。分からないまま、取り巻かれるまま、生きていくことをひじりは選んだ。


「息子を憶えているかい」


 見覚えのある道を流し見していると隣からかかった問いに、ひじりは目を細めて頷いた。


「事件の後、随分と心配していたよ。随分となついていたからな、泣いてしまってね。だから、君が生きていたと知ったらまた泣くかもしれないな」

「私だと、分かりますかね」

「分かるさ。身長や髪が伸びてもどれだけ大人びても……笑わなくなっても」


 分かるさ、と最後に小さく繰り返した言葉には切なさが滲んでいた。窓越しに無表情の自分を一瞥して目を伏せる。
 5年の歳月が経ち、身長は伸びて髪も長くなり顔立ちも大人のものに近づいている。
 無口になったわけではない。けれど整った顔からは表情が抜け落ち、口にする言葉も淡々としている。
 感情がないのではなく、出し方を忘れてしまった。“人形”の中に残った人間は、今も眠りについている。






 予定通りの時刻に工藤邸へ着いて、車から降りる。見上げれば記憶の中にあるままの大きな家――― もはや屋敷と言っていいそれに、滲むような懐かしさを覚えた。
 優作がトランクからボストンバッグを取り出す。着の身着のままだったひじりだったが、必要最低限のものは揃え、そして明日にでも優作の妻、有希子が選んだ衣類その他が大量に届くことになっている。
 ひじりの生還を飛び跳ねて喜び、お祝いよ!と明らかにお祝いの域を越えた量のそれにいっそ感心したのは記憶に新しい。体力的な問題などを考慮して連れ回されることはなかったが、もしを考えると末恐ろしい。


「行こうか」

「はい」


 車の鍵をかけ、ボストンバッグを肩にかけた優作が促す。自分の荷物は自分で持とうとしたのだがこの紳士、「レディにそんなことは」と決して渡すことはなかった。
 優作が玄関を開け、ひじりが入る。足を踏み入れた家はやはり懐かしく、記憶より物の位置が低く感じるのは身長が伸びたせいだろう。


「新一!いるか!」


 広い家なので優作が声を張り上げ、息子を呼ぶ。少し間があって部屋のドアが開く音がして、廊下を歩く音が近づいてくる。階段へと繋がる廊下の陰から1人の少年が現れた。


「ンだよ父さん、昨日いきなり真夜中に電話かけ…て…きて……」


 優作ともまた違う、少年らしくありながら端整な顔立ちをした彼は、昨夜の電話の文句を口にしながらため息をつきかけ、無表情で玄関に立ち見上げるひじりを見ると口を開けたまま固まった。

 青い目が大きく見開かれて凝視してくる。記憶の中の新一はまだ小学生だったが、見ない間に随分と成長したのだろう、幼い頃の面影を残しながらもしっかりと身長も伸びて高校生に成長した姿に細く息を吐いた。


「……ひじり…?」

「うん。久しぶり、新一」


 恐る恐る、まるで幽霊でも見たように問いかけた新一に頷けば、彼はくしゃりと顔を歪めた。
 新一が足早に階段を下りてきて目の前に立つ。自分より少し高い位置の顔に、見上げなければならなくなった、同じ目線である時期を逃してしまったことを少しだけ残念に思った。
 僅かに腰を屈めて撫でていた頭は、今はもう腕を伸ばさなければ届かない。


「大きくなったね」

「だよ、それ…おめー、親戚のおばさんかよっ…」


 新一を見上げながら言い、見下ろしてくる彼の頭をゆっくりと撫でる。更に顔を歪め、瞳を大きく揺らして湿った声を絞り出した新一はひじりの手を振り払うことなく甘んじて受け俯く。
 優作は何も言わない。ひじりも何も言わず、はたはたと静かに床に落ちる雫に目を伏せた。

 視界の端で腕が伸びてきて、痛いくらいに強く抱きしめられる。掻き抱かれながら、肩口を濡らす彼の胸に頭を寄せた。シャツ越しに早い心音を聴く。宥めるように新一の背中を叩いて、安心させるようにゆっくりと撫でた。


(新一を抱き上げることは、もう無理だな)


 自分より大きくなった体躯に抱きしめられながらぽつりと思い、優作の言う通り泣いてくれたことが、少しだけ嬉しかった。






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