「……私は何も知りません」


 さあぁ、と雨の降る音が聞こえる。窓の外は闇に包まれ、空からは大粒の雫が絶え間なく降り注いでいた。
 その静かに静寂を揺るがす音が、自分の記憶をゆるりゆるりと呼び起こす。


「彼は何も私に教えませんでした」


 外を眺めるその目は何も見ていない。記憶の海を漂い、彼を思い浮かべて沈めていく。彼が自分に与えたものは少なく、奪い削り取っていったものは数えきれない。あの手が声が目が、告げた言葉は少なかった。
 だから、と彼女は言葉を続けた。その漆黒の闇を湛えた瞳が無感情に目の前の人間を2人映す。


「私には何の価値もありません。私はただ、彼の“人形”でしかなかったのですから」





□ 人形が見る夢 □






 彼女は“人形”だった。ひとつの命に己の命を縛られ、ひとつの命に未来を縛られた、“人形”。主人の気の向くままに求められ、呼吸を繰り返し生命活動を維持し続けるだけの、お飾りですらない“人形”。
 少なくとも彼女は己のことをそう認識しており、それ以外の認識の仕方が分からなかった。


「……そうか」


 低い男の声がぽつりと落とされる。彼女は男を見上げ、難しい顔で腕を組む女の方を見た。
 “人形”を彼から奪い、もとい助け出した者達。彼女がそれを望んだわけではない。
 彼女は何も望まない。生も、死も。あの瞬間――― “人形”であることを選んだ瞬間から、何も。


「証人保護プログラムを受ける気はあるか」


 男が唐突に問う。疑問をこめた目を向ければ、女が説明した。名前も生まれも何もかもが、戸籍から別人になる。簡単に言えばそういうこと。
 彼女はすぐに答えた。「いいえ」。彼女は賢いが故に彼らの益となる手段が頭に浮かぶ。


「彼はいずれ私を取り返しに――― あるいは、殺しに来るでしょう。そのとき、私は格好の餌であり囮になれます」


 男の表情は変わらず、女の顔は歪んだ。何を言うの、と言われたが視線を向けず、彼と同じように髪の長い男を見続けた。
 ――― 違うのは、その色。


「利用するかどうかはあなた達次第です。いずれにせよ、私はそのプログラムを受ける気はありません」


 男の目が細まる。背筋が凍るように冷ややかではあるが、彼ほどではない。
 彼女は再び窓の外へ目をやった。彼の“人形”となって以来、まさか彼のもとを離れることになろうとは思わなかった。
 彼が望み続ける限り、飼い殺されると思っていたから。


「“人形”の次は、餌か囮が目的か」


 静かな男の声は、問いではなく確信。
 彼女はそれに答えず微笑まず、無を宿したまま雨の音を聞き続ける。


「……私はどうやら、彼に会いたいようです」


 瞬間、男の懐から銃が引き抜かれた。照準は彼女の頭。
 慌てて女が咎めるように男の名を呼んだが、男は銃を下ろさず彼女を冷たく見下ろしたままだ。彼女もまた、命の危険に晒されているにも関わらず何の反応も示さず窓の外を眺めるだけで。
 どうして、と焦ったような女の声が問うてきた。どうして彼に会いたいのと。
 彼女は窓の外を眺め続け、やがてぽつりと言葉を落とした。


「“人形”として、最後に自分で決めたこと。“人間”として生きることを許されないなら」

「殺されるために、か」


 男が彼女の言葉を引き継ぎ、小さくため息をついて銃口を下げた。
 ばかな女だ、と静かな声が響く。


「“人形”として求められたらどうする」


 彼女は男の方を振り返り、躊躇うことなく答えた。


「護られないなら、私は再び彼のもとへ“人形”として戻るだけです。……少なくとも今は、それでもいいと思っています」

「……あなたは……」

「ご立派な“人形”だな」

「シュウ!」


 女は声が荒げて男を咎めるが、男は吐き捨てるように言って彼女を冷ややかに見下ろす。けれど銃口が再び向けられることはなく、男はその大きな手で彼女の頭をわし掴んだ。力がこもりぎちりと音が鳴る。彼女は痛みに眉を動かしただけでそれ以上の反応は見せない。
 男の目と彼女の目がかち合い、鋭い視線を漆黒が吸い込んだ。


「……父親からの伝言だ」


 ぴくんと、初めて彼女の表情が変わった。僅かばかりに見開かれた目が、人間らしさを宿す。
 男はすっと目を細め、彼女へ父親からの伝言を口にした。


「『俺はいつまでも、どんなお前でも愛しているよ――― ひじり』」


 ゆらりと漆黒が揺らぎ、薄く開かれた口は、しかし音もなく閉じた。目を伏せた彼女から手を離し、男は窓へと目を向ける。
 彼女は膝の上で両手を合わせて組み、おとうさん、と掠れた声で父を呼ぶ。男の大きな手がくしゃりと髪を撫ぜた。それに父のぬくもりを思い出そうとして、しかし思い出したのは彼のぬくもりで、彼女は手が離れると再び窓へ目をやった。


(鎖を外されても、まだこの首には首輪がついたままだね。――― ジン)


 絶望ではなく喜びでもなくただ無感動に、“人形”を抜け出し“人間”を取り戻し始める彼女は、小さくため息をついた。






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