26





 5年前のあの日に出会って“人形”になってからこの方、名前を呼ばれたことなどなかった。
 それでよかった。自分はジンのもので、名前のない“人形”となったのだから。

 ――― なのにどうして、最後に呼んだ。
 一番呼んでほしくなかった。最後に“人形”のまま、死にたかった。
 名前を呼ばれないことが、長く伸びた髪と同様、“人形”の証であったから。

 殺すと、また奪いに来ると言った。
 “人形”であることを拒絶し“人間”へ還ったひじりの全てを。

 いいだろう。ならば待とう。また漆黒が現れるのを。
 けれどただでは殺されない。全てを奪うのなら抗おう。


 明確な殺意をもって、私が殺してやる。





□ 人形が見る夢 26 □





 雨の音に意識をゆるく意識を引っ張られて目を覚ましたひじりは、ぎしぎしと軋む体を無理やり起こして視線を落とした。
 手首には擦れた赤い痕に指の痕がのっているが動きを制限する手錠はもうなく、足も同様だ。何も身に纏っていない体の上半身には無数の鬱血痕と左肩に肉を抉られた痕。そして下半身にも右太股の内側に傷があって、白いシーツに点々とした血が染みていた。指に、もう部屋にいない男の血をこびりつかせている。

 赤黒い指先を鬱血痕が散る首に伸ばしてさすった。散々絞められて、解放された今でも息苦しい。あれだけ強く絞められたのだから指の痕が残っているだろう。触れた体温は、やはり人の熱を持っていたけれど。
 どれだけ意識を飛ばしていたのか、ひじりには分からない。けれどそう長くではないことは、股に感じる不愉快なぬめりが教えてくれた。


(……ジンは)


 ひじりを殺さなかったのか、殺せなかったのか。考えてはいけない。
 何にせよ、ジンは“人形”を手放しひじりを解放した。けれどいずれまた自分の前に現れる。全てを奪いに来る。
 だからそれに全力で抗い、殺す。奪われる前に奪う。誰にも譲れない、自分の獲物。それだけでいい。


「……きもちわるい…」


 すっかり冷えた全身は痛むし、体中は汗や何やらでべとべとしてる。風呂に入りたい。
 ベッドから痛む体に鞭打って引きずりおろし、散らばる衣服を集める気にもなれずにそのまま歩き出したひじりは、蛍光灯の明かりに翠が反射したのを見て、砕けた四葉のクローバーの欠片を拾い上げた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。いつつ、むっつ、ななつ、やっつ。大きな欠片を手の中に入れて握り締める。ひしゃげた金具に小さな機械がついているのを見て、用意周到だと掠れた笑みが漏れた。


「……ごめん、快斗」


 瞼の裏には、最後に見た、必死な顔で手を伸ばす快斗の顔が映る。
 もし帰れたら、約束通り君に恋をしよう。けれど、ああだけれど。穢れている自分を、果たして受け入れてくれるだろうか。
 きっと傷つけた。深く深く傷つけた。嫌われても仕方のないことを、した。
 それでも追って来てくれるのなら、今度は私から手を伸ばそう。

 ひじりは決して落とさないように8つの欠片を握り締めた手に力をこめ、足元をふらつかせながら部屋を出た。
 どうやら単身者用アパートのようで、細長い廊下のすぐ先には玄関が、右にキッチン、左にトイレと風呂という簡単な構造だ。
 適当に当たりをつけたドアを開くとそこは望み通りバスルームで、ひじりは電気を点ける気力もなくよろめきながら浴室へ入った。
 蛇口をひねればすぐにシャワーヘッドからお湯が出てきて、ほっと息を吐く。お湯は冷え切った体には熱いくらいだったがすぐに馴染み、洗い流しながら軋む体をほぐすようだった。


「……何もない…まぁいいか」


 ふと狭い浴室内を見回してもシャンプーやリンスどころかイスも風呂桶も何もなく、ただ蒸気でくもった鏡が1枚あるだけだ。
 ひじりは濡れた手で鏡のくもりを払い、そこに映った自分のひどい有り様にため息をついた。血行が良くなったせいで首や肩の痛みがぶり返すし、止まり切ってない血がまた流れる。ぱたぱたと指から滴った水は、こびりついて固まった血を溶かし排水溝へ流れていった。


(……つか、れた)


 酷使された体は悲鳴を上げており、何とか倒れこむのを耐えたひじりは床に座り込んで浴槽に凭れかかると頭からお湯をかぶった。
 ざああああああ。シャワーの音かそれとも遠くから聞こえてくる雨の音か、段々判らなくなる。
 長い髪が背中にはりつく。横髪を留めるものは何もなく、俯いたひじりの顔を隠した。


 ざあああああああああ


 音がする。水が流れる音。
 あたたかい。なのに耳の奥では冷ややかな響きがする。


 ざあああああああああああああああああああ


 疲れた。全身は痛いし、拒絶の言葉を吐き続けた喉も絞められていたこともあって先程から発していた声はひどく掠れている。
 お湯の温かさがうとうととひじりの意識を微睡ませる。凭れていた浴槽に頭を預け、お湯をかぶりながら、ひじりは目を閉じた。





■   ■   ■






 雨が降りしきる中、静まり返って闇に溶けこむ住宅街の一角の道路を、一台の車が走る。
 速度を落としたその車内で周囲に目を走らせていた快斗は、遠くにふとちらりと明かりが見えたのを捉えた。


「赤井さん、次の角を右にお願いします!」

「何か見えたか」

「建物の最上階だけ電気が点いてました」

「きっとそこね」


 快斗の言葉を受け、赤井は指示通り角を曲がってアクセルを踏み込んだ。長い道路を走っていれば、赤井やジョディの目にも快斗が見た建物が目に入る。
 外観は古びた5階建てのアパート。その最上階の角部屋に、ぽつりと電気が点いている。間違いない。


「飛ばすぞ」


 目的地を視認し、短く告げた赤井が更にアクセルを踏みこむ。
 ここは立ち退きされて人がいないとは言え、そのスピードは明らかに交通道路法違反だが気にする者などいなかった。

 ふと、快斗の闇に慣れた目が何かを捉えた。
 視界の端で動いた何かに素早く焦点を当てれば、闇に紛れながら遠くへ走り去る一台の車。赤井とジョディは気づいていないあれが、ひじりからあらゆるものを奪い檻へ閉じこめていた人物。
 顔は見えなかったが車の形を一瞬で頭の中に叩き込み、どうかひじりが生きていることを願う。

 赤井は道中、おそらくひじりは殺されはしないだろう、と言った。5年間囲っていたことと、ジョディと撃ち合ったあの場所に死体がなかったことから推測される。
 しかし、ひじりは“人形”をやめると言うはずだ。そうなれば殺されてもおかしくない。


(だが―――)


 赤井は3年前、まだ組織に潜入していた頃のことを思い出す。
 あの銀髪の男の陰に、ひじりはいた。格闘術、殺人術、科学知識、車から小型飛行機の操縦などありとあらゆる知識を詰め込まれ、逃げ出す機会はいくらでもありながら詰め込まれたそれをどこにも活用することはなく、従順に“人形”であり続けた彼女を、知っている。
 それは快斗も知らない、ひじりの闇とも言うべき部分だ。その闇を内包する“人形”が“人間”になろうとしてるからと言って、あの男が簡単に殺してしまうとは思えない。
 だがそれも、絶対ではない。あくまで可能性の話だ。


(本当に、馬鹿な女だ)


 護ってくれと、たったひと言口にすれば他にも方法はいくらでもあった。だがひじりは自分で自分の始末をつけに行き、受け入れるだけで協力はしない。
 ただあの男の気配を感じると言うから、最近は自分やジョディが尾行するようになって周辺を警戒し、そして今日、本人は抵抗せず連れ去られた。

 馬鹿な女だ。“人間”として誰かを――― 快斗を愛してしまったから、己の死期を早めた。
 だがそんな女を助けたいと快斗は覚悟し、ジョディもそして赤井も同じことを思っている。


「ジョディ、俺の予備の銃を黒羽にやれ」

「OK」

「扱えるな?」

「はい」


 赤井に言われた通りホルスターに納めたままの銃を頷いて受け取り、快斗は手際良く腰につけた。
 ふんと赤井が鼻を鳴らす。戸惑いも躊躇いのかけらもない少年の真剣な表情に、ジョディはもう驚かない。

 ただ一点明かりの点いたアパートの前で停まり、ドアを開ける前に僅かに窓を開けた赤井とジョディは、先程快斗がハッキングした監視カメラを素早く正確に撃ち抜いた。
 残るもう一台を快斗に撃てと顎で示し、快斗が同じように窓から銃身を覗かせて躊躇いなく引き金を引く。それは見事に監視カメラを撃ち抜き、それを見た3人はすぐに車から降りた。


「中の監視カメラは俺とジョディが撃つ。お前は顔が見られないようにしろ」

「了解」

「“人形”を捨てたのなら他に人はいないはずだが、一応用心しておけ」


 頷いた快斗はどこからともなく帽子を取り出して深くかぶり、腰の銃をすぐに抜けるよう手を添えて赤井とジョディに挟まれる形で随行する。
 入口と各階段に設置された監視カメラを次々と赤井とジョディが撃ち抜く。予想通り人は誰もおらず、3人は特に障害もなくすんなり最上階の角部屋へと辿り着いた。


「…中から水の音がするな。だが気配はない」

「……私が先に入るわ」


 何かを察したらしいジョディが言い、赤井が頷く。快斗は頷く他なかった。
 鍵がかかっていないことを確かめた3人は、やがて呼吸を揃えて一気に押し入った。無言のまま土足でジョディが先陣を切る。一番に駆け寄ったのは音のするバスルームで、赤井は誰の気配もない奥の部屋を睨みつけるように見て銃を構え、快斗もその横で警戒した。

 バスルームに入ったジョディはそこに捜していた人物を発見し、だが固く目を閉じているのを見て慌てて脈を取った。
 大丈夫。生きている。だが完全に気を失っており、抉ったような左肩の傷がひどい。そして首や鎖骨あたりに散る鬱血痕に太股の傷。唇を噛んだジョディはひと息で呼吸を整え赤井を呼んだ。


「シュウ、コートをちょうだい!」

「……分かった。黒羽、お前は見ない方がいい」

「え…」

「あいつもお前には見られたくないだろう」


 その言葉で悟り目を見開く快斗を置いて、赤井はコートを脱ぐとバスルームにいるジョディへ渡した。ジョディの体で隠してはいるが概ね予想通りで、すぐに視線を外して玄関へ戻ると半開きになった向こうの部屋を睨む。


「ボスに連絡を入れてくる」


 赤井が携帯電話を片手に奥の部屋に向かったのを見送り、少しだけ緊張の糸を緩めた快斗は、バスルームからコートに包んだひじりを抱えて出てきたジョディに目を向けた。
 何も身に纏っていないらしい白い痩躯は濡れそぼり、長い髪からぱたぱたと雫をこぼす。だが確かに生きていることに安堵の息をついた瞬間、コートの合間から首回りがちらりと覗き、そこにあった夥しい痕に見開いた目を凍らせた。


「……君は見ない方がいいわ」


 快斗の様子に気づいたジョディが優しく言って薄い呼吸を繰り返すひじりを抱え直す。顔も完全に見えなくなり、コートの裾から投げ出される濡れた白い足首にある痕に快斗は唇を噛んだ。


「ボスに連絡した。まずは病院へ行くぞ。そこで待つと。…黒羽」


 呼ばれてのろのろと顔を上げる。
 ひじりを一瞥だけしてすぐに快斗へ視線を戻した赤井は淡々と問うた。


「お前はどうする?」

「……行きます」


 そうか、と返した赤井はジョディを一瞥して部屋から出た。
 ジョディが続き、快斗は奥の部屋を振り返って帽子の下できつく睨むと、2人の後を追った。






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