25





 目を開ければ、夢から覚める。





□ 人形が見る夢 25 □





 ふっと意識が持ち上がって、ひじりはゆるゆると瞼を押し上げた。瞬間蛍光灯の明かりが目を灼く。もう一度固く閉ざして眉をひそめ、数度薄く瞼を押し上げて瞬きをすれば段々慣れてきた。
 ここは――― どこだ。


「……う…」


 ずきりと頭が痛んで呻く。額に手を当てようとして、小さな金属音が耳朶を打ち手首にかかる重みに眉をひそめた。
 薬のせいで強制的に眠らされた体に纏わりつく嫌な倦怠感を振り払うように体を起こす。思った通り手首には銀の輪がはめられ、裸足の足首にも同じ物。あの日目覚めたときと同じだ。

 徐々に覚醒していく頭で5年前を思い出すが、記憶のものと部屋の造りは違っていた。
 大きなダブルベッドだけが占める部屋。クロゼットがついているがベッド以外に家具はなく、少し狭い。真っ暗な空を臨める窓ははめ殺しで開きそうになく、高さから推測するに恐らく5階。飛び降りることは無理だろう。

 雨に濡れたまま拭かずにいたせいで衣服が肌にはりついて気持ち悪い。しっとりと色を深める黒い髪を払えばふいに髪飾りが指に触れ、それがそこにあることに安堵した。
 そのとき、ふいに閉まったまま沈黙していたドアのノブが下がり、部屋に入って来たのはやはりジンだった。
 ジンは帽子もコートも脱いだシャツ姿で、ひじりと目を合わせると咥えていた煙草をそのまま床に落とす。
 大きな手には鈍く蛍光灯の光を反射する銃が握られている。ぼんやりそれを眺めていれば、がつりと銃口が額に押しつけられた。


「お前は俺のものだ」

「……そうだよ。でも、さっき言ったよね。私はもう、“人形”ではいられない」

「裏切る気か」

「だから裏切る前に、殺して」


 迷いはなく、恐れもなく、ひじりは“人形”としてジンを見上げほのかな笑みを浮かべる。


「誰がお前を奪い、“人間”にした」

「……さぁ。私には分からない」

「言え。でなければ全て殺す」

「たかだか“人形”ひとつで?」


 ジンの確かな脅迫も、ひじりは小さな笑みひとつでかわす。
 できるはずがないと分かっている。組織は幹部の“人形”ひとつにそこまでのリスクは冒さない。組織に忠実なジンは、それを振り切ってまで周囲全てに制裁をすることはできない。ジンができるのは、“人形”を殺すか解放するか、ただそれだけだ。


「殺して。それができないなら私を解放して。
 ――― 簡単でしょう?」


 その引き金に指をかけて、軽く引けばそれで終わる。
 ひじりはもう“人形”でいられない。それをジンが抑えこめるのならば、ひじりは5年も図太く生きていられなかった。

 感情を窺えさせない冷徹な深緑を見つめながら、やっぱりきれい、と内心で呟く。
 蛍光灯に煌めく銀の髪は、月の下でなら美しく残酷に輝くことを知っている。整った顔が5年の間に浮かべてきた表情も知っている。冷えた手の下で脈打つ血の流れを知っている。冷酷であるのに確かな熱を持った人間であることを、嫌というほど知っている。

 瞬きせずに見つめていると、ふいにジンは銃口を額から離した。
 瞬間、ひじりのこめかみにグリップが勢いよく叩きつけられる。


「…っ…」


 大きく視界が揺れ、ベッドへ沈みこんだひじりは痛みにたえて痙攣する瞼を押し上げた。ひどく冷たい、ぞくりと背筋が凍るような目をしたジンが見下ろしていて、乱暴にひじりの髪を掴むと、横髪に小さく咲く四葉のクローバーを毟り取った。
 何本か髪の毛を引き千切られて痛みが走る。視界の端でジンの手に奪われたそれに、ひじりは手を伸ばした。


「返、し…てっ」

「これがお前を“人間”にしたのか」

「違う、関係ない、返せ…!」


 必死に手を伸ばすも、髪飾りを持つ方とは逆の手で首を絞めるように押さえつけられて届かない。
 ジンは腕に爪を立てて抵抗するひじりを一瞥して手に力をこめ、それでもなお手を伸ばすひじりにひとつ舌打ちした。ベッドの外へ投げて床に転がったそれに銃を向ける。髪飾りの行く末を悟ってひじりが暴れるが、無視して引き金を引いた。


 ガゥンッ!


 寸分違わず弾を食らった髪飾りは呆気なく壊れた。葉は散り、砕けた石の欠片が物悲しく光を反射する。
 ざわりと総毛立って感情が昂る。きつく寄せられた柳眉と瞳に宿ったのは、長く胸に抱くことを忘れていた怒りだった。
 だがジンはそれを見ても意に介さず、もう片方も拒むひじりから無理やり奪うと同じように投げて銃で撃ち壊した。


「ジン…!」

「“人形”には必要ない」


 吐き捨てるような冷たい響きに息を呑み、ひじりは砕けた四葉から目をそらすと瞼を下ろした。
 ゆっくりと息を吸って吐く。目を開き表情のない目でジンを映し、その手に握られた銃を握ると自分の心臓へと向けた。
 静かに脈打つ心臓の鼓動は銃越しにジンにも届いただろう。怖くはない。死に対する恐怖など“人形”には一番不要なものだ。


「……“人間”なら、お前はまだ俺のものでいるのか」


 それは小さな、弱い問いだった。
 “人形”ではなく、“人間”としてなら、ひじりはジンのもので、檻ではなくその隣に、いれたのだろうか。
 表情の窺えない、けれど冷たさも感じない深緑の目を見ながら考えて、ひじりはゆるく首を振った。


「……もう、遅い」

「……」

「あの日、檻から連れ出される前だったなら……分からない」


 ひじりは“人形”としてジンのものでいて、檻から連れ出されて初めて“人間”を思い出した。そうして快斗に出会い、愛して、“人間”でありたいと思ってしまった。
 だからもう遅いのだ。“人形”はジンの隣で“人間”になりそこねた。

 “人間”のひじりは、ジンの隣を望まない。

 ぎちり。首にかかる手に力がこもる。
 顔が近づいたかと思えば左の肩口にうめられ、がつりと容赦なく歯を立てられて息を呑む。


「…っ、あ、がっ…」


 喉を絞められながら肩口の肉を鋭い歯で裂かれる。思わずジンの左腕に思いきり爪を立てればジョディに撃たれた傷口が開いて血を滲ませるが、ジンは呻きひとつ上げず更に白い肌に歯を食いこませ、裂いた肌を舌で抉り嬲った。
 仕込まれた体がびくりと跳ねて何をされるのかを察したひじりは、情けが一切ない乱暴な手つきで服を剥いでいくジンの手に爪を立てた。


「嫌、だっ…嫌だ、殺して、殺せ、ジン!

「……」

「……どうして…簡単なのに、指一本動かせば、それで終わる…」


 なぜジンが自分を殺さないのか、そんなこと考えたくない。分かりたくない。
 気まぐれで生かした命じゃないか。“人形”だったから生かしていた。“人形”でいられないのだから、殺せばいいのに。
 ひじりは全てを奪われ、与えられたものは何もない。それでいい。情になど、気づかないふりをしたままで。


「お前は殺す」


 冷淡な声と共に首を絞めていた手が顎を掴んで上を向かせ、ひじりは深緑と目を合わせた。
 それに宿るものは何もない。何も見えない。気づきたく、ない。


「俺の手で、もう一度全てを奪う」

「…っ…」


 掴まれた顎が痛い。爪を立てた指には赤が滲んで、シャツを赤く汚している。
 銃から離れた手が肩口の傷を押し広げてひじりに激痛を与え、脂汗を滲ませるもそらされることはない目に、ジンは冷たく口の端を吊り上げた。


「――― ひじり


 呼ぶな、と紡ぐはずだった言葉は唇を塞がれて喉の奥へ消えた。





■   ■   ■






 唐突に消えた点滅に、快斗はくそっと舌打ちした。だがすぐにキーボードに指を置いて素早く動かし、最後に消えた反応の場所を割り出していく。
 ハンドルを握りながらその様子を横目に一瞥した赤井は、何も言うことなく視線を前へ戻した。


「場所は郊外、山の麓の…この座標は、住宅街?」


 暫くして割り出したGPSの座標からインターネットのマップを検索してみれば、確かに住宅街の画像が画面に開かれている。後ろからそれを覗きこんで見たジョディは苦く呟いた。


「まずいわね。下手したら住民を巻き込みかねない」

「いえ…ここは都市開発されるため、住民は誰もいないはずです。その計画も今は頓挫していますが…」

「成程、絶好の隠れ場所というわけだ」


 快斗は顎に指を当てて少しの間思考に耽り、小さく息を吸うとふいにまた指を動かしはじめた。画面がものすごい速さで流れていく。文字の羅列、無数の画像、その流れを見てジョディは眉をひそめたが、パッと画面に表示された画像に目を見開いた。


「あった…!だいぶ遠いけど、この男ですね」

「Wow!」


 画像は少々荒いが、画面に映し出されたのは間違いなく黒ずくめの男で、その腕に何かを抱えているのも見える。
 ジョディは思わず賞賛する。この少年、おそらく電気が引かれたままであるだろうと踏んで街頭の監視カメラをハッキングした。
 まだ発信機を正確に捉えられる範囲内に入っておらず、どうしても誤差はある。いちいち建物を物色している暇はないため、間違いなく快斗の功績だった。


「よくやった。場所は」

「ちょっと待ってください…」


 快斗が開いた画像はどこか建物に入る後ろ姿を捉えただけで、それがどこかは判らない。
 再びキーボードを叩いて次々とカメラを切り替えた快斗は、やがてそこが5階建てのアパートであることを知らせた。
 エレベーターのない、一見すると古いアパートだ。そこまで何とか判った瞬間、唐突にぶちりと画面が真っ黒になる。


「え、何どうしたの!?」

「おそらく、相手に気づかれました」

「ある程度の位置と建物名が判ればこっちのものだ、問題ない」

「せめてあと10分あれば正確な位置まで把握できたんですけど…」


 悔しそうに歯噛みし、快斗は深くため息をつくとノートパソコンを閉じた。
 画面に映っていたのは男1人だが、仲間がいると見て間違いないだろう。
 少し時間はかかったが痕跡を一切残さずにいたから、こちらに危害が加わることは低い。あったとしても、そんなことはとっくに覚悟の上だ。


(……それにしても、あの黒ずくめ…)


 先程見た画像に映っていた男を思い出す。
 黒いコートを着て同色の帽子をかぶった黒ずくめの男と、キッドのときに何度か己の命を狙ってきた黒ずくめが重なる。
 何か関係があるのか。そう考えてもまさかFBI相手に訊けるわけもなく、快斗は頭に叩き込んでいた地図通りに道を示した。






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