23





 さあ終わろう。

 夢は終わり。


 私は“人形”として戻る。


 “人間”を抱いて、終わる。





□ 人形が見る夢 23 □





 雨が降っている。
 観覧車を降りて土産屋に寄ることもなくゲートをくぐり外に出た2人は、手を繋いだまま、しかし互いに口を開くことなく駅へ向かって歩き出した。


「家まで…送る」


 コンビニに寄って買った1本の傘を2人で使いながら、ようやく快斗が小さくそう言った。ひじりは雨の音に紛れて聞こえなかったふりをして、ただ心の中でごめんともう一度呟く。
 繋いだ手は痛いほどなのにとても冷たくて、小さな後悔をひじりの胸に落とした。
 出会わなければよかっただろうか。そうしたら“人形”のまま、漆黒のもとへ戻れたかもしれない。
 そんな、何の意味もない後悔だ。

 駅に入って傘をたたみ、手を繋いだままホームに降りる。がやがやとざわめく人の波の一部になりながら電車を待った。


『間もなく電車が参ります』


 女の声のアナウンスが聞こえてすぐ、ホームに電車がやって来た。プシュー、と電車のドアが開く。人がたくさん降りてきて、乗って、ひじりと快斗は入口側に立った。探せば座れる席はあっただろうが、ただ2人は寄り添うように立っていた。


「快斗」


 ようやくひじりが口を開く。快斗が窺う気配がする。
 ひじりは手を離すと快斗の胸に凭れかかった。驚いた快斗が緊張で身を強張らせたのを感じる。恐る恐る背中に手を回そうとする快斗の腕の感覚を刻み込みながら、ひじりは頭を胸にこすりつけた。


「私は快斗に死んでほしい。――― けど同じくらい、生きていてほしい」

ひじりさん?」


 プルルル、電車の発車音が鳴る。

 瞬間、ひじりは快斗の胸を力一杯突き飛ばした。

 油断していても尻餅をつくことはなく、たたらを踏み大きく数歩電車から離れたホームに足をつけた快斗は、驚愕に目を見開いていた。
 ドアが閉まる。2人を裂く。理解した快斗が焦燥し電車へ戻ろうとするも、伸ばされた手は届くことなく閉まったドアに阻まれた。

 死んでほしいと言った言葉は嘘じゃない。けれど同じくらい、生きていてもほしいのだ。
 ひじりとは関係ないところで、たとえひじり以外に恋をして愛してもいいから、記憶の片隅に愚かな女がいたのだと覚えて幸せになってほしい。
 ずるくて、わがままで、自己中心的な愛は、まだ恋を知らないから身勝手なことを望む。



「――― さようなら」



 動き出した電車の中、ひじりはしかと快斗を見つめながら、笑った。





■   ■   ■






 走り去った電車を呆然と見送った快斗は、最後に見た綺麗な笑顔を思い出し、ぎちりと奥歯を噛み締めた。


「…くそっ!」


 死んでほしいと言われた。喜んでと受け入れた。きっと今日で終わる彼女の傍にいれるなら、自分も今日終わってもよかったのに。
 ひじりの言葉に嘘はない。彼女は本心から死んでほしいと願って、そして同じくらい生きていてほしいとも願っている。嫌味なくらい冷静な頭が容易くそう理解する。護ってと、最後まで絶対に口にしなかったひじりがいっそ憎らしい。

 たとえ線路を走っても追いつけるはずがない。今から寺井を呼ぶよりも、彼女の家の最寄駅に寺井を待機させておいた方がいい。
 冷静に判断して携帯電話を取り出し急いで寺井に電話をかける。アレも頼む、とひと言言えば分かってくれた。電話を一旦切ってひじりに電話をかけるも繋がらず、『この電話は電源が入っていないか…』と淡々としたアナウンスが腹立たしかった。


「何で…!」


 ひじりが表情を変えずとも雰囲気や目で楽しんでいたマジックでも、今彼女の前に現れることはできない。
 救いたかった。自ら閉ざされることを望んでいたあの檻から盗んでしまいたいと思ったことが、ひじりを愛したきっかけだった。
 ひじりは結局最後まで自分の腕を取らなかった。白に包まれた自分に約束と問いを残して振り払った。
 だから、今度は“快斗”として、檻の外で“人形”のままでいたひじりを救いたくて、気づけば恋をしていた。
 快斗は全てを知っているわけではない。けれど聡明な頭脳は多くはなかった情報からでもひじりを理解して、寄り添うことを迷いなく選んだ。


「……すみませんひじりさん、オレは諦めが悪いんですよ」


 死んでほしいと言われた。生きていてほしいと言われた。
 その両方を叶えるためなら、どんなことでもしよう。

 だから、どうか間に合ってほしい。
 嫌な予感に早鐘を打つ心臓をなだめながら、快斗はホームに入って来た電車へ素早く乗りこんだ。





■   ■   ■






 雨が降っている。
 駅から出たひじりはぼんやりと、だがしっかりした足取りで人気のない居住区を歩いていた。
 冷たい雨が降り注いで傘を持たないひじりの体を冷やす。張りつく髪が鬱陶しいと思いながらも足は止めない。
 雨の匂いが充満する道に、ひじりを導くように知った匂い・・が紛れこんでいた。それを辿っていたひじりの前にふと、黒塗りの車が闇の中から浮かび上がる。
 ポルシェ356A。それに背を預けて寄りかかる長身の男。雨の中でも、その銀髪は輝きを失わず光を反射している。


「束の間の夢はどうだった」

「嫌になるくらい、優しかったよ」


 低く体温を感じさせない男の問いに、ひじりは薄らと笑みを浮かべながら答えた。その表情は、男のものである“人形”の表情だった。
 ひじりは“人形”である自分の“所有者”たるジンの傍に寄った。見上げた深緑の目は鋭く冷ややかで、けれど確かに、人間として生きている。
 視界の端に肌色が走った瞬間、ひじりは首を絞めるジンの手によって車に体を押し付けられた。ぎちりと指が食いこむ。気道が締まって息がしにくくなり、軽く足が浮いた。それでも抵抗はせず、氷よりも冷たく凄惨に光る目を見据えながら口を開く。


「私は…“人形”は、お前の、ものだ。夢はもう…終わり。私は、檻に、かえる」


 切れ切れに発された言葉に、ジンがついと目を細め僅かに手の力を緩めた。ふっと満足できない息をついて何とか取り入れ、少しだけ楽になった喉を震わせて言葉を続ける。


「――― けど私は、もうお前の“人形”には、戻れない。私は“人間”でありたい。そう思ってしまった、そう願ってしまった。

 だから、ジン。

 私を――― 殺して」


 ひじりは“人形”で、ジンのもので、だからこの命はジンのものだ。けれどもう、“人形”としてジンの檻にはいれないから、きっと逃げ出してしまうから、殺して、と。
 揺るぎない覚悟と決意に満ちた意志が宿る眼で、懇願する。
 ジンはひじりの言葉に僅かに目を瞠り、底冷えするような怒りを宿して首にかけた手に力をこめた。気道が締まって息が止まる。けれどひじりは一切抵抗せず、ほのかな笑みすら浮かべていて、それを見たジンは唐突にひじりを解放した。


「…っ、げほっ、けほ、はっ…」


 車に凭れかかりながら地面に尻をつき、降りしきる雨に顔を晒してひじりはのろのろとジンを見上げる。酸欠でくらくらと頭が揺れ、意識も不明瞭だ。ぼうっとジンを見上げるひじりの胸倉を、車のドアを開けたジンが掴み上げた。
 乱暴に車内の後部座席へ投げこまれる。鞄が地面に落ち、やわらかいシートに勢いよく倒れこんだ瞬間、微かな銃声がひじりの耳朶を叩いた。


「……!」

「兄貴!」


 ジンが懐から銃を取り出すのと運転席にいたウォッカが声をかけるのは同時で、ひじりは痛む喉に手を当てながらリアウインドウ越しに外を見た。
 雨でけぶる中、1人の女が鋭い声を発し拳銃をジンに向けているのが見える。


(――― ジョディさん…?)


 何発か互いに撃ちこみ、ジョディの弾がジンの右腕を掠めた。だがジョディも食らってしまったらしい。足を撃たれたか、ふいにがくりと地面に膝をつく。それでも、せめて車のタイヤを撃とうと銃口を向けるジョディの手元をジンが正確に撃って拳銃を弾いた。
 ジョディが電柱の陰に隠れる。ジンは既に仲間を呼ばれている可能性を考慮したようで、銃を懐に戻すと車に乗りこんだ。


「出せ」


 短い命令にウォッカが応えて車を発進させる。
 ジンはコートのポケットから手の平サイズのケースを出して中からひとつカプセルを取り出し、ひじりの口に無理やり指で突っ込むと吐き出させないようにか、己の口で塞いだ。


「…っ…」


 口内をねぶる舌がカプセルを奥へと押しやる。
 後頭部にドアの固い感触が当たり首には大きい手が回っていて逃げ場はなく、2人分の唾液と共にごくりと嚥下した。それでも口内を犯し回る舌は止まらず、黒いコートに爪を立てて初めて抵抗を示すが、大の男に女が敵うはずもなく。


「…ふ、はっ…嫌だっ…はな」


 呼吸のために一度唇が離され、荒い息をつきながら拒絶の言葉を吐いた唇をまた塞がれる。
 酸素が足りなくて頭がくらくらする。飲まされた薬が即効性なのもあって、次第にひじりの意識に紗がかかりはじめた。
 崩れ落ちるように意識が飛ぶと同時に、ジンのコートを掴んでいた指がずるりと滑り落ちた。






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