18





 時間が流れるのは早く、もう春休みが終わって新年度を迎えた。
 冬の寒さもすっかり春の暖かさにすり替わり、マフラーも手袋も必要がないほどだ。それでもまだ肌寒い。学校へ行く新一と蘭を見送ったひじりは、自室に戻るとカレンダーの日付を見て目を伏せた。


(……まだ…あと少し、せめて快斗との約束が守れれば…)


 まだ、ジンは自分を見つけていない。けれど分かる。もうそんなに、時間は残っていない。
 どれだけだろう。1週間か、1ヶ月か。近い。だがそれに抗う気は、ない。
 前回の定期連絡の際に、赤井にこのことは既に知らせている。彼は静かに「そうか」と言っただけで、それ以上は何も言わなかった。


 ――― ずるり。


 漆黒が蠢く気配が、する。





□ 人形が見る夢 18 □





 平日の昼が過ぎた時間、ひじりは図書館ではなく工藤邸のリビングにいた。イスに座り、やわらかな湯気を立てるコーヒーを前に正面の人物へ顔を向け、小さくため息をつくと口を開く。


「いきなり連絡もなく帰って来られて、さすがに驚きました、有希子さん」

「ふふっ。ひじりちゃんの驚く顔を見たくて」


 悪戯っぽく笑う彼女は美しさの中に小悪魔じみた愛らしさを醸し出し、きれいなウインクをするとカップに口をつけた。
 工藤 有希子。優作の妻で新一の母親でもある彼女は、子供が1人いるとは思えないほど若々しく美しい。そのことを十分に自覚し存分に活用する有希子は、ひじりが先程さて図書館へ行くかと玄関を開けると扉の向こうにいてばったり顔を合わせ、「久しぶりねひじりちゃん!」と勢いよく抱きついてきて家の中へ押し戻したのである。

 有希子とは“お祝い”を買ってもらった際に会ったきり今日まで会う機会はなく、今まで仕事で忙しかったらしい。日本にも帰って来たのではなく仕事で、たまたま時間が少しあいたのだから家に寄ってみたのだという。それにしても「私がいない可能性もあったんじゃ?」と訊けば「女の勘よ!」で片づけられた。


ひじりちゃん、少し変わった?」

「……?」

「私は女優だったからね、分かるの。本当にお人形みたいだった表情、だいぶやわらかくなっているわ」


 優しく細められた有希子の目は疑いようがないので、きっとそうなのだろう。
 赤井達に檻から連れ出された頃と比べ、ひじりは少しずつだが、滲むように感情を表に出す方法を思い出している。快斗や蘭に本当に小さくだが笑ってみせることができたし、最近新一にも有希子と同じことを言われた。
 基本は無表情で普通に見ても無表情だが、分かる者には分かるほどまで表に出せるようになっているのだろう。それはきっと、快斗のお陰だ。彼の太陽のように暖かで明るい笑顔が“人間”を滲ませるから。
 ひじりが僅かに頬を緩めると、有希子はくすりときれいな笑みをこぼした。


「最近仲良くしてる黒羽快斗君のお陰かしら?」

「……新一から聞いたんですか?」

「ええ。あの子ったら、ひじりちゃんを取られたってぷりぷりしてたわよ」


 ひじりの様子を聞いてきた有希子に、新一は「黒羽快斗っていう奴と仲良くしてるみてーだ」と短く簡単に教えたのだろう。心配せずとも、蘭に言ったように新一は新一で大事な存在だというのは揺るぎないと言うのに。


「それにしても、快斗君かぁ。なつかしいわね」

「知ってるんですか?」

「ほら、私快斗君のお父さん…盗一さんのところに弟子入りしたことがあったでしょ?その繋がりで、ね。新一から聞いて驚いたわよ。まさか盗一さんの息子さんと、ってね」


 成程、そういうことか。
 でも小さい頃に会ったきりだったから、と苦笑する有希子に顔は新一そっくりですよ、と教える。


「そうなの、是非今度会わせてね」


 有希子に両手を合わせて微笑まれひじりが頷くと、有希子はふいに記憶を手繰るように首を傾げた。


「あら…?でも、確か優哉さんも盗一さんとお友達だったわよね?」

「え?」

「8年前に盗一さんが亡くなるまで交流はあったはずだけど……憶えてないかしら?」


 言われて、僅かに残った古い記憶を引っ張り出す。
 首をほぼ真上に上げてそれを見上げていた自分を、盗一は抱き上げて笑った。もう明確に顔は憶えていないけれど、その優しい笑顔だけは、憶えている。
 ――― あれか。ひじりが5歳くらいのものなので詳細は殆ど憶えていないが、言われてみれば父親に連れられて会った気がする。


「すごく小さい頃に…会った記憶はあります。でも、お父さんに快斗の話とか聞いたことはなかったです」

「盗一さんが亡くなったことでだいぶ落ちこんでたから、話せなかったんじゃないかしら」


 それに、その頃あたりに実の母親が死んだと聞かされた。
 10年前に両親は離婚して父親に引き取られ、実の母親との縁を完全に切って男手ひとつで稼ぎながら何とかひじりを育てていたこともあって、他人の家を気にかける余裕まではなかったのだろう。
 だがマジックのマの字も発したこともなかったのを思い出せば、それ以外にも何かしらの理由があったのかもしれない。それを、もうひじりが知ることはできないけれど。


「世間って狭いんですね」

「違うわひじりちゃん。こういうのは運命って言うのよ?」


 思わず呟けばにっこり笑った有希子が訂正して、運命ねぇと内心でため息をつく。快斗と出会い、そして傷つけなければならないことが運命だと言うのなら、それはとても残酷で悲しいものだ。
 ミルクを入れたために茶色へと色を変えたコーヒーの水面はゆらりと揺れて、俯いたひじりの顔を映した。


ひじりちゃん、もしかして快斗君のこと好きなの?」

「……否定はしません」


 コーヒーを口に含んで有希子の問いに答える。喉を通った液体は内腑をじわりと温めた。


「けど、私の想いはきれいなものじゃありません。――― 私はたぶん、快斗に『死んでほしい』と思ってます」


 淡々と紡がれた言葉は非情で物騒なものであったが、快斗に抱く想いとしてはこれが一番的確だった。
 自分と関わることでこちらの事情に巻きこみ、快斗にも被害が及ぶだろう。もしかしたら殺されてしまう可能性だってある。

 ジンが所属する組織のことをひじりは詳しく知らない。だが赤井達が警戒しひじりに忠告するくらい非道なことは知っている。だから、安全に生きてもらうためには突き放すべきだと分かっている。白馬探を関わらせまいとしたように。
 解っていて、それでもできずにいる。身勝手なわがままだ。解っている。それでももう、あのあたたかな手を離すことはできそうにない。
 ずるくても汚くてもいいから、許すから、隣にいてほしいと思う。“人間”として、彼の隣にいたい。

 だからこその、「死んでほしい」。

 私のために。私のせいで。私と一緒に。

 そんな醜い感情を抱きながら、贈られた髪飾りに触れる。ひやりとした冷たい感触が、きっと快斗は笑って頷くのだろうと予感させた。何も知らないはずなのに、全てを知った顔で。


「……“愛”にはね、正しい形なんてないのよ、ひじりちゃん」


 黒々とした髪にぽつりと咲く四葉に触れたまま俯いていたひじりは、静かな笑みを湛えた有希子の言葉に顔を上げた。有希子は優しく微笑み、形の良い唇を動かして「ないの」ともう一度囁く。


「だから、綺麗なものとは限らない」


 カタリとイスを引いて立ち上がり、傍に立った有希子を見上げる。やわらかな手で頭を撫でられて優しい声が降ってきた。


「きっとそれが、ひじりちゃんの“愛”なんでしょうね。ふふ。そこまで強烈に想われてるだなんて、快斗君が少し羨ましいわ」


 有希子は年上の女らしく綺麗に笑ってひじりの想いを“愛”と言うけれど、果たしてそうなのだろうか。ここまで身勝手でわがままな“愛”があるものか。だが有希子は笑ったまま笑顔をくずさない。ゆるりと頬を撫でた指がひじりの想いを肯定していて、それを認めたい自分はやはり自己中心的だ。


「女も男も、人間は誰しもずるくてわがままで、自己中心的なものなの。それでもそんな愛を受け止めてくれる人のことを、運命の人と言うのよ」

「……有希子さんにとって、優作さんがそうであるように?」

「ふふ、もちろん。でもそれだけじゃないわ。ひじりちゃんにだけ教えてあげる。私ね、実は毎日優作に恋をしてるの。愛しながら、恋をしているのよ」


 恋はね、人を変えるの。ずるくてわがままで自己中心的な私を、彼に寄り添えるように変えてくれるの。
 そう言って笑う有希子は誰よりも輝いていながら美しく、そしてどこまでも恋する乙女のように清らかだった。


ひじりちゃんはもう愛しちゃってるんですもの。あとは恋をするだけね?」

「順番が逆ですね」

「あら、それもまた恋愛の醍醐味よ?」


 くすりと綺麗に笑った有希子は、ひじりの手に己の手を重ねて優しく握りこんだ。


ひじりちゃん、私はあなたの幸せを願っているわ」






 top