16





 ぽつり。



 黒が、滴る。





□ 人形が見る夢 16 □





 冬も終わりに近づき、世間は春休みを迎えた。
 ひじりは快斗の協力もあって高校一年生の教育課程の半分以上を終え、新一に使わなくなったばかりの教科書をもらい、変わらずほぼ毎日図書館へ顔を出している。そうすれば司書に顔を覚えられるのも当然で、ひじりが館内に足を踏み入れるとにこりと笑って「いらっしゃい」と声をかけられるようになっていた。


「お友達…快斗君、もう来てるわよ」


 ひじりと快斗が彼氏彼女の関係ではないと知っている司書は、微笑ましそうに目許を緩ませると談話スペースの一角を指差した。つられてひじりがそちらを見て、ぽんぽん花を出したり色とりどりの玉を出したりとマジックの練習をしている快斗の後ろ姿に目を細める。


「快斗」

「あ、ひじりさん」


 声をかければすぐに気づいて振り返り、明るい笑顔に瞳を緩ませた。
 キスをされた日からまた暫く経っていたが、快斗は変わらずメールも電話もくれて、こうして図書館にも来てくれる。たまに誘われてなつかしい駄菓子屋へ繰り出したりこの間市に買い取られた時計台を見に行ったり、一緒にブルーパロットへ顔を出したりもした。

 寺井の紅茶を飲みながら、そういえば以前出会った、白馬探という少年のことを知っているかと訊いてみれば大変驚かれ、聞くところによるとクラスメイトなんだとか。
 気が合わないのか、苦虫を噛み潰したら思った以上の汁が出てきたと言わんばかりの顔をして「ひじりさん、男は狼ですからほいほいついてっちゃだめですよ!」なんて言われてしまい、以前新一と蘭にも同じ忠告をされたことを思い出した。

 快斗は、変わらず笑っていてくれる。
 ひじりが態度を全く変えていないせいだろうか。気まずくなることもなく、またキスをするわけでもなく、ただ寄り添うように2人はいる。
 変わったのはひじりの意志で、じわりじわりと滲み出てくる“人間”をただ受け入れている。
 そんな穏やかで少しずつ変わっていく日々を目まぐるしいと感じながら、同時に漆黒が陰を伸ばしつつあるのも感じていた。

 ――― たぶん、近くにいる。どこにいるかは分からない。視線を感じるわけでも彼の銀髪を見たわけでもない。
 けれど5年の間に培われた直感が、あるいは“人形”としての自分が、“所有者”の気配を敏感に察知している。
 再び相見えるのは、そう遠くはない。願うなら快斗との約束が果たされてからと思うが、そんな都合よくはいかないだろう。

 それでも束の間の夢にひたろうと、ひじりは思考を切り替えて快斗の隣、自分の定位置に腰を下ろした。鞄から勉強道具を取り出す。今日は物理だ。


ひじりさん、この調子なら新年度には二年生のできるんじゃないですか?」

「二年生の分は教科書じゃなくて参考書になりそう。これ借り物だし」

「あ、そっか。ひじりさん進み早いしなー、殆ど教えることないし……二年生の、オレも一緒にやろうかな?」


 手は進めたまま問題を解き、真面目に考えるときは会話をやめる。分からなければ快斗に教えてもらいながらまた解いていると、来年度も変わらず来てくれるらしいと分かって嬉しくなった。


「一年生のは中学生の勉強を少し掘り下げたみたいなものだから簡単だったけど、二年生となると今までみたいに簡単にはいかないだろうね」

ひじりさんなら大丈夫だって」

「そうだね、快斗もいるし」


 頼りにしてる、と本心を言えば快斗は喜んで「任せてください」と頼もしいことを言ってくれ、ひじりはもうひとつ頷くとまた問題に向かった。
 そうして暫くはひじりがシャーペンを動かす音と快斗が本をめくる音だけが暫く続いて、自己採点まで終えたひじりは間違いがないことに満足して手を止めた。

 ふと時計を見れば昼を回っている。机の上を片づけて鞄を膝に置き、ひじりに合わせて本を読むのをやめた快斗がバッグから菓子パンを取り出すのを見て、ひじりは鞄からふたつの弁当を取り出した。


「快斗、お弁当いる?」

「へっ!?」


 予想通り驚いた快斗が目を見開いてひじりの手に掲げられている弁当を見て、ぱちぱちと目を瞬く。
 いつも学校帰りに来ていたため快斗は図書館で弁当を食べる機会はなく、また母親が海外を飛び回っているせいで昼は殆どパンなど軽いものですませるといつだったか聞いていたひじりは、春休みになって図書館で一緒に昼を過ごしたとき、初めて本当に快斗はパンばかり食べていることを知った。
 最低限の家事能力は身につけているが朝食昼食はおざなりで、だが夕飯は幼馴染や寺井の世話になっているので何とか健康的なんだとか。
 新一といい快斗といい、食べ盛りの男子高校生がそれではもたないだろうし栄養だって偏る。いやそもそも親が不在なのが原因かと頭を痛めた結果、2人分作るも3人分作るも一緒だと快斗の分の弁当も用意することに決めたのだ。
 何だか新一がとても面白くなさそうだったが、作ってもらっている立場なので文句が言えるはずもない。
 そんなわけで持って来て一応いるかと訊いたのだが、快斗はぽかんと口を開けっ放しで答えない。


「……いらない?」

「いる!いります!」


 余計なお世話だったかと僅かに引っこめれば、はっと我に返ったらしい快斗が慌てて手を伸ばしてきたので、ひじりは快斗に弁当を渡した。


「あ、り…がとう、ございます…。……まさか作ってもらえるとは思ってなかった…」


 呆然と手の中の弁当を見下ろしてひとりごちた快斗は、ゆるゆると唇を緩めて嬉しそうに笑う。そんなに喜ばれては作った甲斐があったというものだ。
 まだ開ける前から感激している様子を横目に、口に合えばいいのだけれどと胸の内で呟く。新一はうまいと言ってくれたが、快斗はどうだろう。

 ひじりは弁当を広げて早速おかずに手をつける。いそいそと弁当の包みを解く快斗の弁当も中身は同じだ。
 ご飯、卵焼き、唐揚げ、おからコロッケ、プチトマトにポテトサラダ。さして豪華でもない平凡なものだが全て手作りで、男用にひじりより多めにしたそれに、快斗はやはり嬉しそうに手を合わせて味わうように食べた。「うまっ!」とこぼれた言葉に嘘はないだろう。


ひじりさん料理うまいですね」

「今世話になってる家でも作ってるから、自然とね」

「何それすっげー羨ましいんですけど」

「春休み中なら、快斗にも作ってあげられるよ」

「お願いします」


 一瞬の躊躇いもなく下げられた頭をぽんぽんと撫で、照れたらしい快斗はそれを隠すように再び弁当へ箸を伸ばした。ひじりより食べるスピードは速いが、詰め込むのではなくしっかり味わっているのを見ると本当に作った甲斐があって嬉しくなる。じわりとまた滲むように胸に広がるあたたかさにのって目を細めれば、ふと箸を止めた快斗はひじりを見ると目を見開いて固まった。


「…ひじり…さん?」

「何?」

「……今、笑って…」

「え?」


 快斗の言葉にひじりも驚いて頬に手をやる。けれど感じるのはいつもの自分の肌の感触で、快斗の言った通り笑っていたのか分からなかった。
 だが快斗は、確かに見たのだ。ほんのり甘い卵焼きには何を入れているのか訊こうとしてひじりを振り返り、やわらかく細められた目と緩められた頬に小さな笑みが浮かんでいるのを。
 それは快斗だから気づいたもので、けれど確かに見紛うことなきひじりの笑顔だった。


「……私、笑えるんだ」


 また笑えるようになったのか。“人形”としての笑みではなく、“人間”としての笑みを。
 ひじりは頬から手を離して快斗を見上げ、ありがとう、と礼を言う。


「私が笑えたのは、快斗のお陰だから」

「え…オレの…?」

「そう、他でもない快斗のお陰。だから快斗、ありがとう」


 いつもの平淡な声に、感情は滲み出せただろうか。笑みはもう一度出てくれただろうか。分からなかったが、快斗はくしゃりと泣き出しそうに顔を歪めて何とか笑おうと唇を震わせる。
 ああ、またその顔だ。別に快斗を泣かせたいわけではないのに。どういたしましてと笑ってくれるだけでいいのに。


「快斗、泣かないでよ」

「泣いてません。今オレすっげー嬉しいんです」

「じゃあ笑ってほしい。実はね、私快斗の笑った顔が一番好きだよ」

「そっか、なら、笑います」


 ぐっと息を呑みこみ、快斗はひじりの好きな顔で笑う。
 ありがとう。自分でも分かるほど笑い返せたらよかったのだけれど、と少し残念だった。


「ほら、せっかく作ったんだから食べよう」

「米一粒残さずいただきます」


 止まっていた箸を促せば決意に満ちた声が返ってきて、ひじりも止めていた箸をまた動かしはじめた。


「ご馳走様でした!あ、これ洗って返した方がいいですか?」

「お粗末様でした。気にしないで、私が家で洗うから」


 本当に米一粒残さず気持ち良く食べ切った快斗から、からになった弁当を受け取り、鞄に仕舞う。だがすぐには勉強を始めない。昼休憩は1時間と決めている。


ひじりさん、手を出して」

「マジック?」

「そうそう。こう両手を合わせて」


 どうやら昼休憩の残り時間は快斗のマジックを楽しめそうだ。
 ひじりは言われた通り胸の前でゆるく両手を合わせ、布もかぶせることなく「ワン、ツー」と人差し指を振る快斗を見上げた。


「スリー!」


 ポンッ


 快斗が笑った瞬間、軽い音が合わせられた手から発されて思わず両手を開く。はらはらと小さな正方形に切られた数枚の色紙が視界の端に映る中、ひじりの両手にいつの間にか載っていたのは、2枚のチケットだった。
 チケットを指で挟んで文字を読む。最近オープンしたばかりのトロピカルランドの、フリーパス付入場チケットだった。


「ジイちゃんにもらったんだ。ひじりさんとどうかって。べ、弁当のお礼も兼ねて!」


 弁当のお礼、と言うがそれはひじりが好きでしたことだ。しかし快斗からのデートの誘いは単純に嬉しいため、ひじりは頬を染める快斗の手に触れて軽く握った。


「喜んで。エスコートはよろしくね?」

「…もちろん、愛しのプリンセス」


 握った手を取り返されて、手の甲に口付けがひとつ落ちた。






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