15





 テレビ画面の向こうで今日もまた白が躍る。
 リビングで1人テレビに向き合いながら、ひじりは心の中で話しかけた。


(あなたの優しさが、眠ったまま置き去りにした“人間”を見つけたんでしょう)


 古くはない記憶。数ヶ月前に白に出会ってしまったから、あのとき“人間”は目を覚ました。しかし白から伸ばされた手を“人形”は取らず、“人間”はまた眠りにつこうとしたけれど、それからすぐに連れ出されたことで微睡んだままだったそれが、今になって――― 快斗に出会って、再び目覚めた。


(あなたのせいだ)


 ずるい。責任転嫁だ。分かっている。解っていて、それでも。
 ――― “人間”でありたいなどと、はっきり思ってしまったのだ。





□ 人形が見る夢 15 □





 静かな音楽が流れる店内に人は多くない。空席がちらほらと見える中、一番奥の席でカップを傾けて紅茶を飲む女の向かいに座る男は深いため息をついた。


「俺は『友好関係には気をつけることだな』と言ったはずだが」

「……それが何か?」

「黒羽快斗。調べてみる限り、マジックが上手な普通の高校生。巻きこむつもりか?」


 忠告をかわそうとしたひじりと探り合いをするつもりはないらしく、赤井はさっさと渦中の人物を口にした。ひじりはカップから口を離して揺れる水面をじっと見下ろす。やがて震えが止まったところで顔を上げた。


「分かっています。けど彼は、私に“人形”ではなくて“人間”でありたいと思わせてくれたんです。私は何も教えていないのに、全てを知っているかのような彼の手を、今更手放すことは惜しい」

「……お前は」

「私は“人形”です。そしてあなた達が使う“餌”です。解っています。それを否定するつもりはありません。けど私は、“人間”でありたい。だからもう一度あの人に会わなければならない」


 認めるのはひどく簡単だった。快斗のぬくもりが惜しい。贈られた髪飾りは奪われたくない。快斗の伸ばしてくれた手に触れるのではなく、私から手を伸ばすからその胸に抱いてほしい。太陽のような暖かな笑顔を見たくて、できることならそれは私に向けられてほしいと、願った。
 これは夢なのだからと諦められそうにはない。夢を現実にしたいと、そう思ってしまった。

 だからひじりは認めた。私は確かに“人形”だが、“人間”でありたい。
 夢を見るのはもう終わらせる。まだまだ先の約束を果たしたい。出会ったばかりだが時間など関係なく、目まぐるしく流された先で、快斗の手を取りたい。

 そしてそのために、もう一度ジンに会う。
 ひじりはジンの“人形”だ。逃げ出さない。鎖に繋がる。そう5年前に“取引”をした。
 だが鎖は断ち切られた。ならば次は首輪で、あのとき命をかけて自らはめた首輪を外してもらおう。


(……けど)


 5年間、ジンの“人形”でい続けた。その間に彼に抱いた想いは憎悪ではありえなかった。いつでも殺される覚悟がありながら図太く生きてきたのだ、思うところはいくつかある。
 だから、会わなければならない。そして首輪を外してもらえないのなら―――。


「死ぬつもりか」

「……『“人形”として、最後に自分で決めたこと。“人間”として生きることを許されないなら』」


 きっと自分は、今連れ戻されても、もうジンの完全な“人形”には戻れない。月のような冷たさを刻みこまれた体は、太陽のぬくもりを知ってしまった。
 漆黒の髪を彩る翠を奪われ閉じこめられるくらいなら。最後の最後に、ジンの“人形”として死のう。


「……ばかな女だ」

「“取引”は、“約束”でもありますから。一方的に破るのなら、ペナルティは必要でしょう」


 ああ、けれど。もし自分がジンに殺されてしまえば、あの白や快斗と交わした約束が守れなくなる。それは確かな心残りであるのに、ひじりを踏み留まらせるには至らなかった。
 身勝手でわがままで自己中心的で、本当にどうしてこんな自分がいいのだろう。


「護ってほしいとは言わないんだな」


 赤井はそれだけを残し、表情はないが瞳に静かな笑みを湛えるひじりを一瞥して席を立った。それを見送り、言えるわけがないと自嘲する。自ら漆黒について行ったツケは、自分で払わねば。

 ひじりはゆっくり紅茶をすする。寺井が淹れてくれた方がおいしかったから、今度は自分から誘おうか。
 お茶請けのクッキーも手作りだったようでとてもおいしかったことを思い出す。だがブルーパロットは夕方から開くので、ひじりには難しい時間だ。営業時間外に邪魔するのも悪いだろう。
 そうだ、そろそろ門限を緩めてもらおう。新一は反対するだろうが、必ず2人以上で行動することを条件にして、つけこむようで悪いが快斗に家まで送ってもらうようにすれば渋々頷く。

 早速帰って言ってみよう。紅茶を飲み干すために傾きを大きくしたそのとき、ふいにカタリと目の前のイスが引かれて1人の少年が腰を下ろした。


「随分と物騒なお話をしていましたね。……工藤ひじりさん?」


 やわらかそうな茶髪から覗く瞳は知的に煌めいてひじりを真正面から捉え、肘をついて組まれた両手の向こうで端整な顔に刷かれた笑みがゆるりと深まる。
 歳の頃は新一や快斗と同じだが、少年らしい幼さを残しているものの2人よりその笑みは品があり大人びている。
 女の子にモテそうな顔だな。無表情に見返し、なぜ名前を知っているのだろうと首を傾げた。


「……誰ですか?」

「僕は白馬 探。探偵です」


 成程、だから奥の席で物騒な話を淡々としていたひじりが気になり、赤井が去って声をかけてきたのだろうが、ひじりの名前を知っていることはまだ説明されていない。思い出す限り、会話の間、赤井はひじりの名前を呼んでいないのに。


「実は僕の父は警視総監でして、あなたのことを少し聞いていましてね」

「……成程」


 そういえば、赤井達はひじりのことを警察関係者に話しておくと言っていた。大方、歳が近いから何かあれば護ってやってくれとでも言われていたのだろうと適当に当たりをつけていれば、「本当は、いずれきちんとした形でお会いするはずだったのですが」と微笑まれた。はあ、と気のない返事がもれる。
 その淡々とした相槌と揺らぎない無表情に、探は少し困ったように眉を下げた。見慣れた反応である。だが気を取り直したのか、ひとつ咳払いをすると改めて目に鋭さを宿す。新一がするような、僅かな変化も見逃さない探偵の目だ。


「あなたのことを僕なりに調べてみましたが、これが面白いほど何も出てこなかったんですよ」

「そうですか」

「ええ。たとえば、燃えた家からは工藤レイコさんの遺体しか出てこず、工藤 優哉さんと息子の大和君は、まだ遺体すら見つかってない。そしてあなたが行方不明となり誘拐されたのだと示す証拠も、何一つ出てこなかった」


 マスコミの発表では、燃え尽きた家からは遺体が3つ出てきたと報道されていて、一時行方不明となったひじりが犯行を犯し逃げたのではと囁かれたらしいが、赤井達の根回しによるものだろう、遺留品から誘拐されたものと見られ断定されたはずだ。
 証拠を捏造したのか事実を捻じ曲げて闇に葬ったのか、ひじりには分からないが探の言い分だとおそらく後者だ。


「苦労しましたよ。何せ、警察のデータバンクにもマスコミの情報以上の詳細がなかったんですから。いいえ、むしろマスコミが発表した情報の方が余程詳細だ。事件の関係者にも箝口令が敷かれている。これは明らかにおかしい。まあ、そのお陰でだいぶ意地になってしまいましたが」

「……」


 さらっと犯罪をほのめかされたが、ひじりは瞬きをひとつしただけだった。


「先程の男との会話と併せて考えてみると、あの事件がただの殺人及び誘拐事件ではないと断定できる。
 ――― あなたはいったい、何に巻きこまれていたんですか?」


 探偵と名乗るだけあって、探の指摘は的確だった。
 おそらくその“何か”の正体が判らずにいても、日本警察が事件を捻じ曲げ隠さなければならないほどのものだとは分かっているだろう。日本だけに収まらない犯罪組織であったから事件関係者は口を噤み、マスコミには早く事態が収まるよう情報をやって終わらせた。今も、本当は“5年前の事件”の生還者としてインタビューがあってもおかしくないのに、ひじりの周りにそういった人間はいない。
 なぜなら、ひじりの存在は敢えて表に晒されているが、過剰に出せば余計なものまで釣れてしまう。それではひじりが“餌”として機能しないから、報道機関には厳重な規制が敷かれている。
 もしかしたらこの聡明な少年は、そこまで読めているのかもしれなかった。それなのに敢えて訊く危険性をひじりは窘める。


「世の中には、知らない方がいいこともありますよ」

「その方が身のためだと?」

「あなたはまだ若い。家族も友人もいるでしょう。その全てを奪われたくないのなら、私に深く踏み込まない方がいい」


 淡々と言い切って、感情の無い目に突き放す色を浮かべたものを探に向ける。探も真剣な目でじっと見返し、時間にして10秒ほど2人は見つめ合った。


「……分かりました」


 探は若いが探偵と名乗れるだけ聡明だ。だから悟った。
 ひじりの家族が奪われ、大きな事件であるにも関わらず闇に葬られてしかるべきの対応をされるだけの、何か。それは決して触れてはならない、絶望しかないパンドラの箱のようなものだと。


「随分失礼なことを訊きました。申し訳ありません」

「いえ、別に」


 頭を下げて詫びる探にゆるく首を振り、すっかり冷めて風味も飛んだ紅茶を飲み干す。帰ろうと立ち上がりかければ探に名前を呼ばれ、ひじりは感情の浮かばない目を向けた。


「黒羽快斗君には近づかない方がいい。でなければ、あなたはいつか傷ついてしまう」


 真剣さの中に確かにひじりを気遣う様子を見せる探に、ぞろりと内腑を直接触られたかのような不快感を抱いた。
 快斗と知り合いなのか。なぜ近づかない方がいいのか。そして、なぜ探にそんなことを言われなければならないのか。説明のない結論だけを告げる探を目を閉じることで視界から締め出し、「いいえ」と探の言葉を否定する。


「傷つけるのは、私の方です」


 淡々としながらもはっきりと言い切り、ひじりは探の反応を見る前に立ち上がった。戸惑う少年から完全に意識を外して店を出る。途端に寒い空気がひじりの肌を刺して、顔を上げると曇り空を睨みつけた。

 太陽は、見えない。






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