14





ひじりさん」

「はい」

「どうか、快斗坊ちゃまをよろしくお願い致します。坊ちゃまのあんなに楽しそうな顔は、この寺井、今まで見たことがありません」

「……」

ひじりさんがお嫌でない限り、坊ちゃまが傍にあることを、どうかお許しください」


 じわり、滲む。





□ 人形が見る夢 14 □





 陽が暮れはじめている。
 ブルーパロットで寺井も交えて話をし、やったことがなかったビリヤードを教えてもらったり“伝説のキュー”についての話を聞いていればいつの間にか帰らなければいけない時刻で、ひじりは寺井に礼を言って店を出た。


「また、いつでもおいでください」


 見送ってくれた寺井の穏やかな笑みはどこまでも優しく、思わず俯いてしまって顔を真っ直ぐに見れなかった。
 じわり、じわり。ゆっくりと“人形”へ“人間”が滲む。目まぐるしい時の中で、夢と現の狭間が分からなくなるように。


「寺井さん、良い人だったね」

「また一緒に行ってくれる?」

「うん」


 躊躇いなく頷けば快斗は嬉しそうに笑っていて、少しずつ自然に削れていく敬語に気づいていない。ひじりは構わないし指摘して直されては何だか面白くないので、黙っておくことにした。


「……そういえばひじりさん、クローバーの意味って知ってます?」


 ふいに問われ、ひじりは無意識に髪飾りに触れて口を開いた。


「希望、誠実、愛情。そして4つ目は、…幸福の象徴」


 夢のないことを言えば、四葉のクローバーは成長の過程で傷つけられてできた変異体なのだけれど、その希少性から四葉のクローバーは幸せを運んでくるとも言われている。
 花言葉は何だったか。ぽつりと思い、しかし口をついて出たのはクローバーか、という呟きだった。


「快斗の苗字に似てるね」

「え?ああ、そうですね」


 黒羽快斗。黒羽。クローバー。快斗から贈られたのは四葉のクローバーがついた髪飾り。
 表情が表に出れば思わず笑ってしまっただろうが、笑えない今、ひじりは真顔でとんだことを言う。


「じゃあきっと、快斗が私に幸せを運んでくるのかな」

「……ひじりさん、それは」

「好きに取るといいよ」


 これは夢だ。“人形”の見る刹那の夢。
 夢から覚めたときに快斗を深く傷つけるかもしれないけれど、請われたように隣に置くから、髪飾りと共にあることを許すから、快斗の中にも私が残れば、なんて思ってしまう。

 冬の木枯らしがひじりの長い髪を煽る。留められた髪は暴れることなく流れ、髪と同色の目を細めた。
 快斗はひじりの言葉に顔を赤くして俯いている。いつもはキザなことを恥ずかしげもなく言う彼も、こうして心からの言葉を放つと歳相応の反応をする。自分に振り回されている。可愛いと思った。


(希望、誠実、愛情、幸福。どれも私には遠いものだけど)


 “人形”は何も望まない。夢から覚めることを分かっていてそれに抗おうとしない。情はあっても特別誰かに向ける愛というものはなくて、幸せが何なのか、もう忘れてしまった。
 けれどひとつだけ、何もかもを奪われることを分かっていて抗わないから、この四葉だけは髪に咲かせたままにしてはおけないだろうか。それは何も願うことのない“人形”の、ただひとつの望みだった。

 駅が近づく。店を出るときに自然とまた繋がった手を引いて人で溢れる中に入り、電車を待つ。
 また今日も近くまで送ってくれるらしい。ありがたいが赤井達の関係者がこれを見たらどう思うだろうかと繋がれたままの手を見下ろしてふと考えるが、まあいいかとそれ以上考えることをやめた。


ひじりさん、クローバーの花言葉って知ってますか」


 人でざわめくホームに並んで立っていると今まで黙りこんでいた快斗からそんな問いがあって、少し考えたひじりはゆるく首を振った。使うことがなかったので、この5年の間にすっかり忘れてしまっている。今度花言葉図鑑でも見よう。
 ライトが見え、電車がホームに近づく。大勢の意識がそちらに向き、ひじりも同じく電車が入ってくることに意識が向いた。


Be mine私のものになって


 震えて掠れた声が耳朶を打ったのとほぼ同時に目の前が暗くなり、唇に何かやわらかい感触。それはすぐに離れて、ぱちりとひとつ瞬きしてピントを合わせれば泣きそうに顔を歪めた快斗が見えた。


「……」

「行こう」


 電車がホームに入り、思考を止めたひじりの手を優しく引いて乗りこむ。それについて歩き、快斗は立ち、席に座らせてもらってようやく、ひじりはキスされたのだと分かった。
 そんなに驚くことでもない。いや、いきなりしかも外でされてそれはそれで驚いたが、快斗は前にひじりに恋をしていると言ったし、ひじりは快斗に快斗が幸せを運んでくるのかと言って好きに取らせたのだ。
 ただ、どうしてあんなに泣きそうな顔をしていたのだろう。まるで、手に入らないと分かりきっているかのように。

 ガタン。電車が動いて体が揺れる。それを支えてくれる手はあたたかい。そうして、気づく。快斗は手を伸ばしてはくれるけれど、決してその胸に閉じこめようとはしないのだと。
 寄り添うように在るだけで。それだけでいいのだと、それしかできないのだと、悟っている。そのことに気づいたと同時に、ひじりの口から出たのは謝罪だった。


「ごめん」

「……どうしてひじりさんが謝るんですか」

「ごめん」

「オレは、謝りませんから」

「分かってる。私が悪い。ごめん……本当に」

「いいんです」


 何も知らないはずなのに、快斗はおそらく誰よりもひじりのことを知っている。
 ひじりは顔を上げて眉間にしわを寄せながら笑う快斗を見る。父に言われたポーカーフェイスはどこへいったのか。偽れない表情がひじりの心を刺すようだった。じくり。じわり。痛んだのか滲んだのか。両方か。

 泣かないで。笑ってほしい。太陽のように笑う君が見たい。
 思うのに、快斗にこんな顔をさせているのは自分であるという事実がひじりの喉を締めつける。

 ガタンガタン。電車が揺れて、夢うつつも揺れて曖昧になる。
 ぐらぐら揺れているのは電車か頭の中か。私は“人形”なのか“人間”なのか。


(私は、どっちでいたい?)


 座る自分と立っている快斗。繋がれていた手はもう離れていて、僅かな熱の残る手がひどく寂しかった。






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