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 快斗に聞けば、四葉を彩る石はペリドットという石らしい。そんなに質が良いものではない安物と言うが、ひじりには多少の鑑定眼があるため真実ではないと分かった。
 確かに高級なものではない。けれど一高校生がやすやすと買えるものでもない。かと言って突き返すのは快斗の気持ちを無碍にするようなものなので心苦しく、デートしてくれればいいから!と言われたのもあって、デート代は自分が多めに負担しようと腹の中で決意した。





□ 人形が見る夢 13 □





 冬もだいぶ過ぎ去り、もう少しすれば春が来る。
 ひじりは自室の壁にかかったカレンダーに指を這わせて目を細めた。


「にぃ」

「……どうした?寝なくていいの?」


 小さな鳴き声と共に足にやわらかな感触がして、視線を下ろせば未だ名前のない猫が頭をこすりつけていた。猫はひじりを見上げてゆっくり瞬きをし、腰を屈め片膝ついたひじりの細い足に前足をのせ動かない表情に鼻を寄せる。そのやわらかな体を抱き上げ、腕にかかる重みを感じながら、この子ももう3歳になるんだっけな、とぼんやり思う。

 今日は世間の休日、今の時刻は昼。新一は事件があったからと目暮警部に呼ばれて出て行った。蘭は部活だ。
 つまりひじりは工藤邸にひとりきりで、特に用もないので暇を持て余していた。何となく本を読む気分にはなれない。

 ごろごろと喉を鳴らして肩に顎をのせた猫が目を閉じているのが分かる。
 縞模様に沿うように背中を撫でる。名前をそろそろつけた方がいいだろうか。つけるなら何とつけよう。候補はあるにはあるのだが、どれもいまいちしっくりこない。

 ――― 引ったくりを捕まえた日から、2週間が経とうとしていた。
 その日、帰宅途中で新一がひじりのデート相手は誰だとか何をしたと問い詰めるのを「告白された」とだけ返し、衝撃を受けて絶句する新一を放って蘭は楽しそうに頬をゆるめると「黒羽君っていうの。良い人そうだったわよ」とフォローに回ってくれた。

 園子は早速休日にひじりと蘭を招いて女子会なるものを開き、彼女らの学生生活や学校での様子を聞いたりひじりの話をしたり。
 蘭から話がしてあったのだろう、今時らしく楽しそうに笑いながら最近の流行やイケメン、オシャレ話に花を咲かせる園子は、それでもひじりの5年間について深く突っ込むことはなかった。たまに口を滑らせ、しまったと顔を青くさせてはいたが、意外と図太く生きてきたのだと教えられることを教えればほっと息をついて興味深そうに耳を傾けていた。

 快斗とは、まだ次のデートをしていない。部活動に所属してはいないようだが、何かと忙しいらしい。それでもひじりが図書館に行けばほぼ毎日会って今まで通り話をしたり勉強をしたりマジックを見たり、そしてメールをしたりする。ああそうだ、つい3日前には初めて快斗から電話がかけられ、それから寝る前の数分間、他愛のない短い会話をしておやすみと切る習慣ができつつある。


(……日が過ぎるのが、早い)


 あの檻の中ではどれだけ日が過ぎたのかも定かではなく、季節は窓の外からしか窺えず、たまに連れ出される以外には停滞した時間の中で生きてきたひじりにとって、檻から連れ出されて過ごす日々は目まぐるしいほどだ。
 何か劇的なことがあったわけではない。穏やかな、とりとめのない日常が緩やかに“人形”の中に眠る“人間”を滲み起こしていく。
 じわりじわり。連れ出されたときにまた消えた表情が、ほら、もう少しで動きそうだ。


(ジン。私はお前の“人形”だ。分かってる。逃げないと決めて、お前のものだと私自身が決めた。“人形”は、何も望まない。これは夢で、いつか覚めるもの。分かってる。だから―――)


 戻るすべをもたない自分を見つけてほしいと、しかし心の中でさえ言葉は続かなかった。続けられなかった。
 あの日――― 檻から連れ出された日。たとえ父の言葉を聞いたとしても、あの深緑に射抜かれればすぐさま漆黒へ足を向けただろう。けれどあたたかな日々が、かけられる言葉や想いがひじりを迷わせる。この夢の中にいたいだなんて、浅ましく。


「……快斗に出会わなきゃ、私は“人形”のまま、夢を見ずにいられたかな」


 小さなひとり言に猫は答えず、ぱたりと長い尻尾を振ってひじりの足を叩く。
 鮮やかな笑みでもって伸ばしてきた彼の手に触れた。話をして、やわらかな眼差しを受けて、約束をした。
 きっと彼だったから。ひと目惚れかもしれませんと言った快斗に、もしかしたら自分もひと目で惹かれたのかもしれない。
 あの日から、夢を見始めた。

 髪を飾る四葉に指で触れる。すっかり定位置となったそこで煌めくペリドットは太陽の象徴で、快斗の笑顔のようだ。月のような冷徹さをもったジンとは対極である。あの銀の髪が漆黒を引き連れてきたとき、果たしてこれを捨てられるだろうか。
 許してほしいと快斗は言った。ひじりの中に、隣にいたいと。たとえどこへ行っても。やはり彼は、何かを知っているのかもしれない。


 ピリリリリ


 ふいに携帯電話が音を響かせ、はっと我に返ったひじりは自室の机を振り返った。身じろいだ猫が軽やかに腕から下り、ひょんと尻尾を振って着信音を鳴らす携帯電話を一瞥してベッドへ戻る。
 ひじりが携帯電話を手に取って見れば、それが快斗からだと認めて目を瞬いた。本当に、彼は何てタイミングで現れるのだろう。
 ボタンを押して耳に当てる。もうすっかり聞き慣れた少年の声に、ひじりはついと目を細めた。






ひじりさん!こっち!」


 駅から出るとすぐに声がかかり、目を向けた先にはいつもの癖毛をなびかせた快斗が手を振って駆け寄って来た。ひじりも快斗へ顔を向け、足を止めた快斗は走ってきたせいか頬を上気させてにっこり笑う。


「急にすみません、呼び出したりして」

「どうせ暇だったからいいよ」

「ありがとうございます。じゃあ行きましょう」


 踵を返す快斗とひじりが向かうのは、快斗の知り合いのプールバーらしい。元は江古田にあったのだが、何でも最近この街に引っ越して心機一転新装開店するのだとか。


「開店は明日からなんですけど、さっき急に前日祝いをすることになったからどうかって呼ばれて」

「今から?」

「いえ、本当は夜からなんですけど、オレがひじりさんを連れて行きたいって言ったら、じゃあ今からおいでって。なのでオレとひじりさんとその人の3人だけで…」

「それなら気兼ねしなくてすむね。ありがとう」


 ひじりが日暮れ前には帰らなければならないと知っているからこその気遣いに、またじわりと胸があたたかくなる。
 ひじりは前を向いて足を進めていたが、休日のため街には人が多く、人の波にのりきれずに軽く他人とぶつかってしまった。すみません、と非礼を詫びて再び足を進めれば、ひょいと掬うように手を取られた。


「はぐれないように」

「…うん」


 さりげなく手を引かれ距離が近づく。女の扱いが上手いなとどこか遠くで感心しつつ、前を向く顔は赤いので可愛い奴だと思う。
 手袋越しに体温が伝わり、あたたかい、と呟いた。そういえば以前借りたマフラーも暖かったことを思い出した。月のように冷たく、けれど生きた人間のあたたかさをもっていた彼をも思い出しかけて、目を瞑りすぐに掻き消す。


「着きましたよ、ここです」


 快斗の声に促されて顔を上げれば、「ブルーパロット」の看板が目に入る。
 駅前から然程歩かないところにあるここは、チェーン店のように分かりやすい外観をしていない代わりに、どこかふらっと入ってしまいそうな優しい気安さも兼ね備えていた。
 快斗が「Close」と札のかかった重厚な扉に手をかける。扉はすんなりと開き、カランカランと涼やかな音を店内に響かせた。暖房が利いて暖かい空気に包まれほっと息を吐く。


「ジイちゃん、来たぞー」

「…お邪魔します」


 じいちゃん、と言うことは快斗の祖父なのだろうか。しかしそれなら最初から“知り合い”ではなくそう言うはずだ。まあ会ってみれば分かるだろうと、快斗に連れられ店内に足を踏み入れてカウンターに寄る。
 店内を見回せば、絞られた照明の下でいくつかのビリヤード台と壁にかけられたキューがあり、端に小さなテーブルとイスもあった。ふと目を引きつけるのはきらりと煌めく一本のキューで、観覧用だろう。少し遠いが札には“伝説のキュー”と銘打たれていた。


「おお、いらっしゃいませ坊ちゃま、ひじり様」

ひじりさん、この人がジイちゃん」


 カウンターの方を振り返れば物腰やわらかな老人がいて、目を合わせるとぺこりと頭を下げる。


「初めまして、工藤 ひじりです」

「初めまして。私は寺井 黄之助こうのすけと申します。快斗坊ちゃまがお世話になっているようで」

「いえ、むしろ世話になっているのは私の方です。快斗君には色々楽しませていただいてますし」


 ひじりは無表情に、寺井は穏やかな笑みを湛えて大人の挨拶を交わす2人に、快斗は子供らしく面白くなさそうな顔をする。それに気づいた寺井が苦笑してひじりと快斗を席へ勧めた。
 ひじりは快斗とは全く似ていない寺井を見て、快斗の言う“ジイちゃん”と言うのは彼の名前だったのだと理解した。それでも、寺井の目は快斗を孫を見るように優しい。そしてひじりに向けられる眼差しもまた、とてもやわらかだ。眼鏡越しではあったが、それははっきり読み取れた。


ひじり様、紅茶はお好きですか?」

「はい。ああ、呼び捨てで構いません」

「それではひじりさんとお呼びしても?」

「はい」

「……ジイちゃん!オレもひじりさんと同じやつ!」

「ですが、坊ちゃまはジュースの方が…」

「いーから!今日は紅茶の気分なの!」

「かしこまりました」


 快斗の可愛らしい嫉妬に目を細めて微笑んだ寺井は、リクエスト通り2人分の紅茶を淹れはじめた。ただし、本来出すはずだったものより甘いものを。


「快斗、寺井さんに“坊ちゃま”なんて呼ばれてるんだ…」

「あー、昔、ジイちゃんが親父の付き人だったから」

「ふぅん……快斗坊ちゃま?」

「ヤメテクダサイ」


 表情は変わらないがその瞳はからかうように細められて、いったい何を想像したのか頬を赤く染めた快斗は勘弁してくれとばかりに両手を挙げた。






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