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 私は誰のもの?
 ――― 分かってる。

 この首にはめられた首輪は何の証?
 ――― 分かってる。

 切れた鎖の先にいるのは誰?
 ――― 分かってる。

 私は、“何”?
 ――― 分かってる。


 それでもどうか、刹那の夢を見ていたい。





□ 人形が見る夢 10 □





 快斗と共に軽くショッピングに繰り出して、ひじりは長い髪を束ねるゴムを買った。最初は何の装飾もない黒いゴムを手に取ったのだが、快斗に樹脂にシロツメクサが一輪固められているのを勧められたのでそれにした。
 そしてカフェに入って、他愛のない会話をする。しかしその中身は趣味嗜好や最近話題の本、更に政治などを絡めた世界情勢までと幅広く、第三者がぽんぽんとテンポ良く交わされるそれを聞いたなら、本当に未成年がする話かと目を剥いただろう。
 しかしインターネットで情報を眺めつつも生の意見や見方を知らないひじりにとって、快斗の主観混じりな感想も客観的な意見も新鮮で飽きないものだった。
 何より、話し方がうまい。ネタのあまりないひじりに対し一方的に喋るのではなく、時折マジックなんかも披露しながらひじりにも話を振って言葉を引き出し、それについて喋って自然とまた話を振る。しかし喋りっぱなしというわけでもなく、静かなBGMにのるようにゆったりとして穏やかな会話だった。

 ショーは快斗らしくマジックショーで、真剣な顔でタネを見抜こうとしながらも楽しむ横顔にあどけなさは一片もなかった。
 煌めく瞳は真剣そのもの。学生でマジックは趣味程度だと言うにはかなりの腕前をもつ快斗の顔は、プロさながらだった。


「快斗は本当にマジックが好きなんだね」

「あ、はい、好きです。ひじりさん、楽しめました?」

「うん。でも一番楽しめたのは快斗の顔かな」

「オレの?」


 こてりと首を傾げる快斗に頷いてみせる。
 ショーは基本立ち見で、快斗が席を確保してくれたためひじりは座れたが、快斗はずっと立ったままだったので疲れただろうとひじりがデパートの外にある喫茶店に誘った。
 流れるのは、クラシックか。会話の邪魔にならないように絞られた音楽を背景に、ひじりは目を細めた。


「いつもくるくる表情を変える快斗の、この上なく真面目で、真剣な顔。でも楽しんでる。マジックをするときと同じ」

「……」

「いいものを見た」


 じわり。また胸に滲んだ何かは、表にも滲み出ただろうか。残念ながらひじりには分からなかったが、快斗には分かったのだろうか、目を瞬くと照れたように目をそらした。


「……オレ、親父に言われた言葉があって」

「盗一さんに?」

「はい。……『いつ何時たりとも、ポーカーフェイスを忘れるな』って」


 手元のカフェオレに視線を落とし、ほのかな笑みを浮かべて水面を見つめている。そこにあたかも父親がいるかのように視線を遠くして、ふいに思い出を辿りながら浮かべていた笑みをそのままにひじりを向いた。


「でも、ひじりさんの前じゃ忘れるみたいだ。オレ、そんなに表情変えてました?」

「羨ましいくらいに。正直、可愛い」

「……“可愛い”より“カッコいい”の方が嬉しいです」

「快斗は普通にいつでもカッコいいよ?真剣な顔をしてるときは…倍くらいカッコいい、かな」


 あ、顔真っ赤になった。
 ふるふると震えながら真っ赤な顔で睨まれたところで怖いはずもなく。ひじりは素直に思ったことを言っただけなので、しれっと無表情にカプチーノをすする。
 年上らしく余裕綽綽な様子のひじりに呻くような礼をした快斗は、両目を手で覆うと深いため息をついて俯いた。耳まで真っ赤なのが見て取れる。ほぅら、可愛い。何だか怒られそうなので心の中で呟く。


「はぁ……本当、ひじりさんは心臓に悪い」

「ごめん」

「褒めてます」

「ありがとう」


 片や赤みの残る顔でむっつりと唇を尖らせ、片や無表情でカップに口をつけている。その差が歳と想いの差のようで、一抹の悔しさを胸に抱いた快斗は何とか平常心を取り戻すと自分もカフェオレに口をつけた。こくりと甘い液体を喉に通し、ふうとひと息ついてひじりを見やる。
 店内に流れる曲に耳を傾けるように伏せられた瞼を縁取る睫毛は長く、整った顔立ちを彩る白い肌はなめらかで、細身でありながら無駄な肉がついていないことが厚い服の上からも分かる。ああくそ綺麗だ、と悪態のような賞賛の言葉を胸の内で吐いた。
 そんなことを知る由もないひじりが半分まで減ったカップをテーブルに置いたのと同時に、快斗はふとバッグから1枚の紙を出した。


「そうだひじりさん、これ行きませんか」


 そう言ってテーブルに置かれたのは、「ジェームズ・ホッパーの孫娘、ジョディがついにステージへ!」と大きく銘打たれたチラシだった。
 公演を行うのはホッパー奇術団。確かイギリスの有名な奇術団だということは知っているが、ひじりはそれ以上のことは知らない。奇術団というからには奇術師の集まりで、つまりマジシャンが勢揃いしているのだろう。


「何か、このジョディって人が再出発は日本でやりたいって言ってて、公演はまだ先なんですけど、せっかくだからどうかなって」


 ひじりは窺うように快斗が上目遣いで見てくるのをちらりと見返し、再びチラシに視線を落とした。
 マジックは嫌いではない。むしろ好きだ。ホッパー奇術団のことについては詳しく知らないが、小さくジョディは団長であるということも書かれていて、期待は十分できるだろう。

 だが―――

 ひじりは公演予定日に指を這わせた。その日付は年度が変わった夏のはじめ。
 本当は明日のことすら定かではない自分が、こんなに遠い日の約束をしてもいいのだろうか。約束をしても、この頃にはもう答えは出ているかもしれない。“人形”として、檻に戻っているかもしれない。
 けれど――― 流れてみようと、ひじりは決めたのだ。


「分かった」

「本当に!?ひじりさん、約束ですからね!」

「……うん」


 頷けば、快斗の喜びが笑みと共に大きくなる。
 約束。そういえば、と夜闇に翻る白に約束したことを思い出す。
 あの日、伸ばされた手を取ることなく、彼に向けたのは。約束と、問いと、そして―――。
 白との約束は、ひじりが流されるままでは、“人形”である限りはいつまでも果たせられない。
 なぜなら、それを果たすのはひじりだから。そして問いの答えをもらうためには、約束を果たさなければならない。

 ひじりは快斗を見た。ああ、そうだ。そうなのだ。
 似ているのだ、快斗はあの白と。伸ばされた腕と向けられた心の優しさが、その心地好く耳に馴染む声が。
 似すぎるほどに、似ている。だからかぶってしまって、快斗を突き放すことも自ら消えることも、できそうにないのかもしれない。

 ひじりは目を閉じた。檻の中から一度は拒んだ腕を、檻の外で別の人間からもう一度与えられたからと縋りつこうというのか。


 夢なのに。これはきっと、“人形”が見る刹那の夢であるのに。


 冷えた目をした彼はきっと自分を逃さない。自意識過剰ではない。
 客観的に分かるのだ。ひじりは逃げないと決めていて、彼も逃がさないと決めている。首輪に繋がる鎖の先を持って、手繰り寄せている。それをひじりを連れ出した者達は防ごうと、あるいは迎撃しようとしている。
 けれど、夢は夢。たとえ結末がどうなろうと、夢は覚めるものだ。いずれ、夢から覚める時はくる。

 それとも。

 いや、だからこそ。
 夢だからこそ、こんなに都合がいいのかもしれない。だからこそ、“人形”のくせに何も望まないはずなのに望みたくなるのかもしれない。
 快斗の笑みが、声が、伸ばされる腕が、許してと言った言葉が、その想いが。


 抵抗せず流れに流れた先で、“人間”になれたならと――― そんなことを、思った。






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