酒は飲んでも呑まれるな。


 誰かがそう忠告した。





□ 呑まれた先は 前 □





 もう深夜も近い時間、ジンがやって来た気配を感じ取ったひじりはゆっくりと目を開けた。
 ベッドの上でむくりと体を起こし、明かりが点いたままであることをぼんやりとした思考で訝る。だが傍で丸まって眠る猫と閉ざされた本があるのを見て、どうやら本を読んでいるうちに寝てしまっていたことに気づいた。

 少し寝癖のついた長い髪を流してドアを振り返る。
 隠すことをしていないジンの気配は感じるが、寝室に来る様子はなく、珍しいなと内心で呟く。しかしそれ以上は特に何も思わず、電気を消して寝直そうかと本をサイドボードに上げたそのとき、ふと喉の渇きを覚えた。
 ジンが寝室に来ないのならばこのまま黙って寝ておけば平和に惰眠を貪れる可能性が高いが、水を飲みにリビングの方へ行くとなるとジンと鉢合わせして絡まれるに違いない。


(寝よう)


 そう思って電気を消すのも面倒くさくなりごろりとベッドに転がる。が、すぐにむっくりと再び体を起こした。一度喉の渇きを覚えてしまったせいで、体が水分を欲してしょうがなく到底眠れそうにない。
 仕方ない、さっと行ってちゃっと飲んでぱっと戻ろう。未だ眠気を引きずりぼんやりとする思考のまま内心で呟いて1人頷く。

 あくびを小さくこぼし、やや体をふらつかせながら寝室を出ると、大きなソファとローテーブルがあるだけのリビングにやはりジンはいた。コートを脱いで乱雑にソファにかけ、帽子も取って端に置かれている。血の臭いが少しだけした。


「…今まで寝ていたのか。良い身分だな」

「ん」


 一瞥と共に投げられた嫌味交じりの冷たい言葉に、しかしひじりは慣れたように短すぎる生返事を返す。そのままジンの横を通ってキッチンに入ろうとすれば、ふとテーブルに置かれた物が視界に入って思わず足を止める。


「お酒…?」


 ぼんやりとした呟きに、ジンは頷きを返さず無言でグラスに口をつける。
 テーブルの上には小ぶりな瓶が数本とアイスピックが備えられたアイスペール。瓶に貼られたラベルは日本語ではなかったが、その雰囲気とジンが飲んでいる様子から酒だと判った。
 数種類開封されているということは、自分でブレンドして飲んでいたのだろう。何を飲んでいるのかまでは興味がないためすぐに思考を逸らし、ロックを涼しい顔で飲むジンの横顔を数秒眺める。
 こうして静かに飲んでいるジンの顔は素直に綺麗だと思う。だがやっぱり凶悪な目つきがだいぶ損してる。などと考えていることなど知らないジンは、ひじりの視線に気づいて胡乱げに目を細めた。


「…何だ。飲みてぇのか」

「いらない。それに私未成年。私が欲しいのは水だけ」


 ばっさりきっぱり断って監禁されている身でありながら真っ当なことを言い、リビングへ来た目的を遂げるためにジンから顔を逸らしキッチンへと再び歩き出した。
 しかし、背後の僅かな衣擦れの音を聞き流しながら2歩ほど歩いた瞬間、唐突に腕を引かれて体勢を崩す。
 乱暴に腕を掴んできたのは1人しかいない。傾いだ体は後ろに立つジンに軽く当たって倒れることはなかったが、いきなり腕を掴まれ、更にぎちりと強く握り締められてさすがにひじりの無表情が訝しげな色を宿す。


「…何」

「……」


 首だけで振り返って短く問うても、ジンは冷たい深緑の目でひじりを射抜き答えず、無言のまま腕を引いて今まで自分が座っていたソファへと乱暴に投げた。
 ジンが乱暴なのはいつものことだ。ひじりは反射的に受け身を取ってダメージを減らし、殴られるのは痛いから嫌だなと思いながらソファに浅く腰掛け直す。それと同時に肩を強く押されて腰が滑りソファに倒れ込み、肘掛けに頭を打ったが柔かかったため痛くはなかった。
 3人は余裕で座れるソファでも、横になればさすがに狭い。更に大の男であるジンが覆いかぶさってくれば圧迫感はいやに増す。
 ひじりはジンの深緑の目が不穏に鈍く煌めくのを目にして、やはりあのまま眠っておけばよかったと軽く後悔した。


「ジン、私は水を飲みたいだけだからどいて」


 渇いた喉から発した掠れた自分の声を聞いて、更に喉の渇きを覚えたひじりはジンの胸を押すがびくともせず、抜け出そうにも縫い止めるように脇の下に腕があり、更にいつの間にか両足の間にジンの体が滑り込んでいて、身じろぎすら満足にできそうになかった。


「…ジン、私は今喉が渇いてて」

「なら、飲ませてやる」


 ずっと無言のままだったジンが遮るように冷たく言い放ち、それに思わずひじりが「は?」と言いかけて薄く開いた唇に、素早くテーブルの上に置いていたグラスの中身を一気に煽ったジンは噛みついた。
 ぬるりとしたやわらかいものが口腔に差し込まれる。同時に冷たい液体が入り込んで、その臭いと刺すような苦味にひじりの無表情が歪んだ。


「ん…ぐっ、んん…」


 口移しで流し込まれているのは酒。初めて飲んだそれは酒に慣れていないひじりの嗅覚を乱暴に殴りつけ、渇いた喉を鋭利に裂いて焼く。
 吐き気すら催させるそれを飲み込むことを体が拒否するが、首の後ろをジンの手が掴んで逃げることを許さず、鼻での呼吸すら許さない激しさで口内を蹂躙する舌に呼吸を求めて飲み込むしかなかった。
 重なった唇から生ぬるくなった酒が少しだけこぼれる。それに気づく余裕もなくひじりは必死に喉で留まる酒をごくりと嚥下した。


「…げほっ、うぇ、けほっ」


 酒を全て飲んだことを確認してジンの唇が離れ、ひじりはすぐに顔を逸らして苦しそうに喘ぐ。
 臭い、苦い、まずい、熱い。更にぐるぐると思考が掻き回され、眠気と混じって気持ちが悪い。ぐらりと視界が揺れた。はっきりと眉根を寄せて少しだけ息を荒げ睨むようにジンを見上げると、ジンは酷く愉しそうに口の端を吊り上げている。


「この程度で音を上げるな」


 冷たい声が降りかかると同時、いつの間に入れ替えたのか、ジンの手にグラスではなくテーブルに置かれていたはずの小ぶりの瓶が持たれているのが視界に入る。
 小ぶりとは言え、それはゆうに500mlはあるだろう。たった今飲まされた分くらいは減っていても、瓶の中にある透明な液体の嵩は瓶の口に近いまま。
 散漫になりつつある頭で、ひじりははっきりと嫌な予感を感じ取って何とか言葉を紡ぐ。


「わたしは、みず、が、のみたいだけで、おさけは、ほしく、ない」


 いらない、と酒に焼かれた喉で何とか切れ切れに拒否を示すも、ジンはただ嗤うだけで。抵抗するなと深緑の目が命令するから、“人形”としてのひじりはぐっと息を呑んで目を伏せた。
 ジンの指が首を這う。再び味わわなければならないものの衝撃を思い出してぞくりと内臓が冷えた。

 ひじりの常の無表情が固く引き攣るのを見て、ジンは心底愉しそうに冷徹な光を宿した目を細め、手に持った瓶を煽る。
 僅かに減った酒が再び合わさった唇から流し込まれ、無意識にびくりと体が跳ねてジンの服を固く握り締めた。


「ふっ、ん…───!」


 飲み込むことしか許されず、口内を犯そうとする舌に弄ばれながら何とか喉に胃に酒を通していく。
 酒の独特の臭いや味、喉を焼く衝撃がただでさえ眠気でまどろんでいた意識を容赦なく撹拌し、ぐらぐらと視界を揺らして不明瞭にする。
 喉を焼き、胃を通って内腑に染み込もうとする酒の熱が体内から犯しつくしていくようで背筋が震え、それから逃れるように、唇を離したジンに水を乞うたがあっさりと3口目の酒を口移しされることで却下された。


「じ、ん、やだ、いや、みず…」


 これ以上は無理だと限界を伝えるために、ジンが僅かに離れた隙を突いて彼の口を力の入らない手で塞ぐ。
 ぐるぐるぐるぐる。意識が回って視界も歪み、ぐちゃぐちゃになった思考ではただ、みずがほしい、もういやだ、その2点しか考えられなかった。
 しかしジンはひじりの懇願を聞かず、口を塞ぐ手を軽く払うと水ではなく酒を口にしてひじりへ与えた。
 それが、耐える気力もなくただ飲み下していくだけのひじりの意識を闇へ突き落とす。


(だめ、これ、おち───…)


 そこで、彼女の意識は闇へと呑まれて落ちた。



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