拍手御礼夢
逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ。
鬼が来る。怖い鬼が追いかけてくる。深い夜の闇の中、鋭いモスグリーンがこちらを見ている。
葉がこすれる音がする。土を蹴る音がする。キュン、と空気を裂く音がして肩口をゴム弾が掠めた。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ。
赤い鬼が、やって来る。
□ おにごっこ □
『えっ、ちょっ、待っ…!うっそそれ避けんの!?
ぉうわっ!!くっそ、この…!』
『ぬるい』
『あ』
そしてイヤホン越しに聞こえて来た音無き悲鳴に心の中で両手を合わせて
ひじりは駆ける。
先に捕まった快斗の通信機が切られたのだろう、ふいにイヤホンは何の音も伝えなくなり、快斗が持つ、互いの位置を把握するための発信機小型モニタを探られ見られる前に
ひじりは自分の発信機を元来た道なき道の向こうへ投げ捨てた。
あの鬼、失礼、いや間違っていないのだが─── 本日のメニュー「おにごっこ」の鬼役である赤井にとって時間稼ぎにもならないだろうが、やらないよりマシだ。
快斗が捕まり、残すは
ひじり1人。制限時間はあと17分。快斗が赤井に見つかってからだいぶ粘ってくれたお陰で、見つかりさえしなければこのまま逃げ切れそうだ。
足跡を残さないよう木から木へと飛び移る。あと16分。快斗が捕まっていた場所から一直線に逆方向へと逃げてひたすらに距離を取った。
あと10分。月の光が遮られる森の中、闇に慣れた目で辺りを窺い、何の気配もないことを確認して地上へ降りる。光の一切が届かない闇だまりの木の陰へ身を潜めて息を殺した。腕時計は文字盤が光るスイッチを切っていて見れないため心の中で時間を数えるが、多少のズレはあるだろう。
60秒を数回数えた頃、獣とは違う足音が耳朶を打って数えるのをやめる。別の何かに意識を割いてやり過ごせるほど赤井は甘くない。一瞬でも気を抜けば、その瞬間地面に転がされるのを経験から嫌と言うほど知っていた。
足音は近づいてくるにつれてゆっくりとなり、やがて
ひじりが身を潜める場所の近くで止まった。木の陰から覗いて見れば、赤井は
ひじりが最後に飛び乗った木の下を見て周囲を見渡している。降りるときは木の根の上に降りたし、ここに移るときも痕跡を残さないよう気をつけたから何も残っていないはずだが、もしかしたら気づかなかっただけで何か見落としただろうか。
闇だまりの中、辺りを探りながら歩く赤井の背中を見つめる。呼吸すら止め、ふいにあと何分か気になったが腕時計を見るためだけに意識を逸らすわけにはいかない。だがあと僅かなのは確かだ。それまで粘れば。
「ちっ、あと52秒か…」
低い赤井の声が静寂を揺らす。あと52秒。既に1分を切っている。
ざり、と足音を立てて赤井が
ひじりに気づかないまま更に森の奥へと進んでいく。視界から消え、潜んでいる場所からは見えなくなった。顔を出せば確実に把握できるだろうが、今は衣擦れの音すら立てなくなかった。あと23秒。
足音が小さくなる。多少のズレは考慮して残りの秒数をカウントする。あと10秒。
9、8、7、6、5、4───
足音は聞こえない。気配もない。0まで数えて腕時計の文字盤が光るスイッチを入れた
ひじりは、音も無く動く秒針と長針を見て、指定された残り時間があと2分残っていることに「え」と吐息のような小さな声をこぼした。
ぬぅ、と後ろから何かが音も無く
ひじりに手を伸ばす。闇に慣れた目が視界の端で己に迫るものを捉え、考えるより先、思考は止まったまま反射的にそれを避けて闇だまりから追い出されるように転がり出た。
立ち上がるまでの数瞬、闇の中からこちらを見つめるモスグリーンと目が合う。嗤うように細められたそれの正体に気づくと同時に喉が引き攣って息を呑んだ。ドッと心臓が恐怖に跳ね上げられる。音を立てて頭から血の気が引き、逃げろと頭の中でガンガン警鐘が鳴り響いて、足音を隠すことも忘れてその場から駆け出し逃走しようとした
ひじりは、空気を切る音と共に足に衝撃が走ってその場に倒れ込んだ。
受け身を取り、手が土に触れて自分が倒れたことに気づくと同時に脳が撃たれた足の痛みを知覚するが、それに構わず無理やり身を起こそうとするも、地に伏せる獲物をみすみす逃すわけがなく赤井に首根っこを掴まれて仰向けに引き倒された。背中をしたたかに打ちつけ、ぐっと太い腕で首を押さえられて息が詰まる。
「惜しかったな」
腕に爪を立てて藻掻く
ひじりを苦も無く抑え込み赤井が低く笑う。体術戦は仕方ないとして、ものの見事に騙された悔しさから睨み上げ、膝で腹を打つが鍛えられた肉体はびくともしなかった。ゴム弾で撃たれたせいで脚に力が入らなかったとはいえ、単純な力の差に舌打ちのひとつもしたくなる。
「ま、だ…!時間はある!」
膝で赤井の腹を蹴ったのは、胸元に伸ばした自分の手に気づかれないようにするためだ。あれで本気で逃げられるとは思っていない。
胸ポケットから取ったペン型スタンガンのロックを外す。強ボタンを躊躇いなく押し、正確な残り時間は判らないがこれが最後のチャンスだと放電するペンの先を首を押さえる赤井の腕に押しつけた。
赤井の体に電気が走って動きを止める─── ことはなく、
ひじりは自分の上で平然と鼻を鳴らす赤井を呆然と見上げた。バチ、と小さな音を残してペン型スタンガンが沈黙する。
「前回これを使っただろう、対策を取らないとでも思ったか?」
「……、……前回あっさり避けたじゃないですか」
「だから、次は避けられない状況で使うと踏んでいた」
Time's up.と口の端を吊り上げる赤井の腕が首から離れ、ペン型スタンガンを押し付けられた袖をめくれば薄手の何か─── 絶縁体が巻かれていて、
ひじりは無言で頭を抱えてぐったりと地面に背をつけた。今日もまた完敗である。
快斗が縄で縛られている場所へ赤井と共に戻り、
ひじりは無表情だが赤井が薄く笑っているのを見た快斗が「負けちゃいましたね」と苦く笑う。勝てると思ったんだけどなぁとため息をついて自力で縄抜けして隣に立った快斗をお疲れさまと労えば、
ひじりさんもお疲れと微笑まれた。
「黒羽、
ひじり。座れ」
「はーい」
「はい」
赤井に呼ばれてその場に座り、3人で円になって始まるのは反省会だ。
「黒羽、お前は
ひじりを気にし過ぎだ。少しはマシになってきたが、今日も始めに
ひじりを追ったとき、カバーに入ろうとしただろう」
お陰で隠れられる前に向こうからやって来て楽だったと続ける赤井にぐぅと快斗が唸る。どうやら自覚はあったらしい。
また、捕獲されそうになったときの抵抗がぬるいと赤井は辛口で評価する。実力差を見て逃げを貫き、体術やゴム弾で足止めしようとするのはいいが、狙いの先が甘すぎる。対峙しまず狙うべきは顔、特に目を優先すべきだ。そうすれば動きと視界を塞ぐことができる。
快斗は赤井の足や手を最初は狙ったがことごとくいなされ、不意を突いて至近距離から撃ったはいいもののその動きは予想済みで避けられ、ならばとそこでようやく顔に蹴りを繰り出したがあっさり受け止められて捕まった、と。
「快斗を先に狙ったのは、私の方があとで捕まえやすかったからですか?」
「そうだ。黒羽を残す方が厄介だった」
「え?そうなの?」
ひじりと赤井の会話に快斗がきょとりと目を瞬かせて首を傾げる。単に近づきすぎてロックオンされたからだと思っていたようだが、捕まえた順番には意味がある。もちろん黒羽捕獲に時間をかけたこともな、と赤井が続けて意味を悟った
ひじりが目を逸らし、快斗は更に深く首を傾げた。対照的な2人を見て赤井が
ひじりに自分で説明してみろと薄く笑う。
「…快斗が捕まったときに残り時間が少なければ、とにかく距離を稼ぎ身を潜ませる選択を私はする。その方が危険は少ない。完全に読まれてましたけど」
「あー…」
「ローリスク行動は悪くない、がお前の潜伏技術は黒羽に劣る。潜伏場所が安直すぎてすぐに分かった。加えて仮想敵である俺の言葉を素直に信じる甘さを抜かないと話にならん」
まさにそれが原因で取っ捕まった
ひじりは何も言えず口を引き結んだ。時間を正確に数えられなかったこともあるし、せめてそれだけでも本気でどうにかする必要があるかと心に決めた。潜伏技術に関してはひたすらに経験を積むしかないのでこれからだ。
最後のペン型スタンガンでの抵抗はGoodと褒められたが、完璧に防いでおいて褒められている気がしない。赤井相手─── 一度手の内を見せた相手には何か別の手も考えなければならないだろう。
「さて、ではペナルティだが」
「げえっ」
制限時間内にゲームオーバーとなったため当然ペナルティはかかる。基本的に訓練相当のものになるため嫌そうな声が上がるのは仕方ない。今回はいったいどんなものになるのやら、と嫌々ながら2人は赤井の言葉を待った。
「使ったゴム弾の回収、そして自力帰宅。夜が明ける前に終わるといいな」
「ほんっとえげつねぇなあんた…!」
「ゴム弾は蛍光塗料が塗ってあるからいいとして、ここから家まで…せめて山の麓に着くまでにどれだけかかるのやら」
追加ミッション、ゴム弾回収と推定十数kmのマラソンに
ひじりの目が死ぬ。道理で今回は少々遠い山を選んだわけだ。
しかし愚痴を吐いても泣き言を言っても状況は変わらない。やれと言われたらやるしかないのだ、ペナルティを含んだ鍛錬及び訓練の成果は確実に身についていることを分かっているがゆえに。
あらかじめゴム弾に塗ってあった蛍光塗料と、麓に降りて最寄り駅にさえ辿り着けば帰り方は自由なことは赤井の優しさだと思うことにしよう。だからと言ってこの鬼めと内心悪態をつくのはやめられないが。
「寝る前に適度な運動ができた、今夜は良く眠れそうだ」
「ちくしょー!見てろよ次は絶対ぇ勝つ!」
首洗って待ってやがれ!と勇ましい捨て台詞を吐いて快斗は森の中に走って行った。早速ゴム弾を回収しに行ったのだろう。そのネバーギブアップ精神は称賛に値する。
ひじりも自分達の全力が適度な運動と言われて慄くのをやめ、少しでも早く家に帰れるようゴム弾を回収すべく再び森へと足を踏み入れる。
躊躇いなく闇が深い森へ消えて行った2人の背中を見送り、思いのほか時間がかかりすぎたなと予想以上の2人の成長具合に感嘆しつつ、さて次はどんなメニューにしてしごいてやろうか、楽しそうに口角を吊り上げた赤井は彼らに背を向けて帰路についた。
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