短編





 カチャリと鍵が外れる音がした。
 きし、と微かな軋みが誰かがいることを、この部屋へ向かって来ることを教える。
 膝の上の猫がのそりと顔を上げ、じぃっと扉に視線を注ぐ。にゃあとひとつ鳴いて膝から下り、大きなベッドからも下りて開かれた扉の向こうに立つ人間の足元へすり寄った。
 本へ目を落としたまま、猫の首を掴んでベッドに放り投げた男が近づいてくるのを待つ。

 顔を上げて長い銀髪を揺らす男を捉えた。深くかぶった黒い帽子から覗く鋭利な目が射抜く。
 おかえりなさいと紡ごうとした唇は男のそれと重なり言葉が紡げず、手の中の本を奪われベッドの外へ放られる。目を閉じれば男の鍛えられた腕が細い体躯に回り、ひじりはゆっくりと力を抜いた。





□ ストックホルム症候群の兆候 □





 重ねられた唇は触れるだけ。
 回された腕にはあまり力が入っておらず、離れた顔が肩口にうめられて、珍しいとひじりは思った。
 しっとりと水分を含んだスーツと髪が、外は雨なのだと教える。鼻腔を掠める血の匂いが、男の愛煙する煙草と香水に紛れて嗅ぎ取りにくかった。


「ジ、ン?」

「……」


 まるで甘えるように凭れるジンが珍しく、戸惑ってひじりは言葉を詰まらせた。
 乱暴に抱き、奪うように事を進めるのが、ジンの常だ。そんなジンしかひじりは知らない。
 細く息をついて呼吸を繰り返し、緩やかに抱きしめるこの男を、ひじりは知らない。

 抵抗すれば、きっとジンを容易くはがすことができるだろう。けれどそれができないのは、あまりにも普段の彼とは違うからか。それとも、自分が“人形”だからか。
 ひじりはそっと手を上げ、濡れた帽子を取った。帽子のお陰で湿気ている程度で済んでいる髪が顕になる。


「…どうか、した?」

「……」


 ジンは答えず、一旦体を離して黒いコートを脱ぎ捨てるとひじりを抱き込みベッドに倒れこんだ。驚いたひじりの手から帽子が離れベッドの下へと転がる。
 静かな心音を立てる胸に頭を引き寄せられ、聞こえる鼓動に、ああこの人も人間なのだと思った。

 どんなに冷酷で冷徹でも、確かに生きている、人間。

 それを改めて悟り、ひじりは緩やかな腕を払って上体を起こした。
 静かに見上げてくるジンを挟むようにして腕をつき、じっとその顔を覗き込む。


「ジン、何か変。具合でも悪い?」

「……お前は、自分を誘拐して監禁している男を心配するのか?…とんだお人好しだな…」


 嘲笑うように薄い唇を歪めて笑みを描いたジンの言葉に、ひじりは眉をひそめた。


「私はお前の“人形”だよ。そうあることもここに留まることも、私は自分で選んだ。だから、“人形わたし”が“所有者おまえ”を心配するのは、…おかしいこと?」


 憎しみも恨みも、ジンの“人形”であることを選んだ瞬間になくした。この命があの人達の命を繋ぐのなら、継母を殺したこの男のものになることくらい、安いものだ。
 そして、ジンの“人形”であることを選んでからは、ジンはあらゆる意味で“特別”になった。
 恋とは違う。愛とも、同情とも違う。ひじりに残された唯一が、ジンなだけで。

 何度も何度も、ひじりは同じ言葉を繰り返してきた。
 違う言葉で同じ意味を含ませて、洗脳のように言い続けてきた。

 “人形ひじり”は“所有者ジン”のものだ、と。

 ジンはひじりの言葉に目を細め、そうだったなと笑みを描いたまま言い、ゆるりと腕を伸ばしてひじりを再び胸元へ閉じ込めた。


「なら、人形は人形らしく…俺を慰撫してみるか?」

「それは嫌」


 たとえジンのものだとしても、“人形”でも拒否権は主張する。
 ばっさりと切り捨て、無理矢理でも事を進めるのかと思いきやひとつため息をついただけで身じろがないジンに、ひじりは目を瞬かせるともぞりと体を動かしてジンの頭を胸に抱えた。


「けど…なぐさめは、してあげる」

「……」


 もしかしたら未だ把握できていないジンの逆鱗に触れ、どこからか取り出した銃で撃ち抜かれるかもしれない。
 それでも構わないと、もうずっと前から覚悟を決めている。ジンを選んだその時から、この命はジンのものなのだから。

 だがジンは銃を抜く腕をゆっくりと動かし、ひじりの細い体躯に腕を回して強く胸に顔をうずめた。それが恥ずかしいとは思わず、ひじりはただ少しどこか、切なくなる思いを抱いた。


(私はマゾではなかったはずなんだけどな…)


 もっと強引でいてほしい、など。
 いや違うか、強情?…違うな。無理やり?あながちはずれでもない。

 とにかく、ギャップと言うのだろうか。弱さを垣間見せるような行動に、凪いでいたひじりの心が揺れ動いている。
 どう接すればいいのかが分からない。“人形”だからではない。
 一人の人間として、一人の人間に、どう接すればいいのだろう。
 常とは違う人間に、どう接すればいいのか。“なぐさめ”を必要とする人間に、どう。


「……何の真似だ」

「おやすみのキス」


 低い声に何てことないように答え、頭頂部に口付けを落としたひじりはジンの髪を撫でた。どんな手入れをしているのかそれともしていないのか、後者だったらすごく腹立つなぁと思うさらさらの髪を梳く。

 ひじりの結論。普段と違う人間がいたならば、自分も普段と違う行動を取ればいい。

 それ故の行動に、ジンは小さく顔を上げて暫くひじりを睨むように見、それでも撫で続けていれば小さなため息をついて視線を逸らした。すると腰に回っていた腕が急に下へと動いて引っ張られ、わっと小さな悲鳴を上げた唇が上から塞がれる。
 覆いかぶさってきた痩身のくせに引き締まった男の体の下で、優しさなどかけらもない荒い口付けにひじりの思考が削られていった。


「っ…、…んっ」

「……するなら、これくらいはしろ」


 キスの合間に囁かれた言葉に無茶言うな、と飛び出そうになった反論は遮られ、荒い口付けに酸欠状態になったひじりがぐったりとベッドに身を沈める。それをどこか満足そうに見下ろしたジンは、再びベッドに横になると抱き枕よろしくひじりを引き寄せた。


 瞬間ごつりと後頭部に突きつけられた、冷えた感覚。


 それが何か、考えなくとも判る。
 何人もの命を削ぎ落としていった、殺人武器。


「……」

「……」

「……」

「……」


 双方、無言。視線を上げれば温度のない瞳と目が合って、ひじりは目を細めた。
 ゆっくりと手を伸ばしてジンの頬に触れる。冷えた体温に、先に風呂へ入れればよかったかと今更ながら思った。


「風呂」


 ジンが目を細める。もしかしたら命乞いを期待したのだろうか。そう思って、そんなことないかと自分の考えを否定する。
 ひじりが命乞いなどしないことを、もうずっと前からジンは知っているはずだ。けど理解はしていないかもしれない。


「起きたら、入って」

「………」


 目を細めたジンの目が、呆れの色を濃くして眇められた。ため息をつかれ銃口が離れる。先程のようにジンの頭を抱え、ひじりはゆっくりとジンの髪を撫でた。
 すると、ふいににゃあと今まで忘れていた存在が高い声を上げて鳴いた。そちらへ目をやれば、構えとばかりにジンの髪をちょいちょいとつつく猫がいて。
 ジンが機嫌を損ねて猫を放り投げる前にそれを制し、撫でてやればごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らして丸くなった。


「……疲れた、寝る」

「おやすみなさい」


 猫が大人しくなってからぽつりと呟きを落とし、眠りにつこうとするジンに久しく浮かべることを忘れていた笑みを浮かべ、ああこれがストックホルム症候群なのかもしれないなと、ひじりは自分の心情の変化に名前をつけた。



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