ウォッカの受難 2





 まず用意した鶏の胸肉をひと口サイズに切り分け、フォークで適度に刺して味が染み込むように細かい穴をあける。次に生姜を摩り下ろし、料理酒と醤油を適量入れて、ボウルに入れた胸肉と混ぜ合わせてごま油を少々。そして手で軽くもみほぐしたあと、数時間冷蔵庫で寝かせろと指示を出す。
 その間、キッチンで使ったものの片付けを行うひじりを横目にウォッカは深いため息をついた。


(……何で俺はこいつに料理なんか教えてんだ?)


 答えは簡単だ。ひじりが以前、ウォッカに教えを請うたからに他ならない。
 いつも既製品では嫌だと主張したために食材と調理器具を用意したのは、ひじりが“人形”となってすぐだ。
 しかし基礎知識はあってもまだまだ料理に不慣れであったひじりの料理スキルは低く、大半が失敗をしていて、それを見兼ねて思わず軽く口と手を出したことが始まりだったように思う。

 そしてひじりは自分の料理スキルの低さを自覚していて、ウォッカに料理を教えてほしいと頼んだ。
 最初は面倒くさかったのと教える義務もないため即答で断り、適当に料理本を与えてはいたが、たまにジンがひじりの料理をつまみ、よく失敗作に当たるのだともらされてからはすぐさま指導に当たった。


(兄貴にあんなクソマズイもん食わせられるか!!!)


 ウォッカは一枚つまんだだけだが、ひじりが以前もクッキー作りに失敗していたことを思い出してジンに心から同情したのは言うまでもない。
 毒の類など一切与えていないというのに、放っておくとひじりは毒の類を量産してしまう可能性があって大いに危険だ。
 そしてひじりの失敗作を口にし続けたジンは、いずれその堪忍袋の緒がぶち切れてウォッカに制裁を下すだろう。理不尽すぎる。


「…はぁ」


 思わずもう一度深々とため息をつくと、片付けを終えたひじりが無表情にウォッカを一瞥して「幸せが逃げるよ」と呟き、それにうるせぇよと返す。一体誰のせいだ。

 ウォッカとて、然程料理が得意というわけではない。
 組織としての任務で外に出る機会が多いため自然と外食が主だったが、それでもある程度はひと通りできる、その程度だ。
 しかし、ひじりに成り行きで料理を教えることとなってからは、少なくとも兄貴分に失敗作を食わせるわけにはいかないと陰で1人予習を兼ねた練習をしており、ひじり以上にウォッカの料理スキルがめきめきと上がっている。全く嬉しくない誤算だ。


(何で男が1人、家で料理本片手に試行錯誤しなきゃなんねぇんだよ…)


 それ以外にやることあるだろ、と思いながらもしかし手は抜けず、しかも最近は料理の楽しさをじわじわと見出しているし、自然と改善されていく食生活にどんどん健康体になっていくし、食費は安く済むし食材の良し悪しも判るようになったし、少しでも良いものをと更に生産地にまでこだわるようになって、それもこれも全部ひじりのせいであり、ひじりのお陰でも───


「あー、くそ!!」


 心の奥底で薄っすらとでもひじりに感謝しそうになり、ウォッカはそれを散らすために怒声を上げた。
 しかしひじりは無表情をぴくりとも動かさずに突然叫んだウォッカに軽く首を傾げ、何か間違えたかと淡々と訊いてきて、ウォッカはそれに半ばやけになりながら「違ぇよ完璧だったよ嫌味なくらいにな!!」と返した。


「そ?ウォッカの教え方が上手いからじゃない」

(ああ、くそこいつは…!)


 本当に調子が狂う。何でこいつは─── “人形ドール”は、自身を監禁している者の仲間に簡単にそう言えるのだ。
 その手に持った包丁をこちらに向けるのではないか、余計なものを入れて油断を突こうとしているのではないかと常に気を張り目を光らせている自分が馬鹿みたいだと腹が立つ。
 しかしここでそれを本人に言ったとしてもひじりはお決まりの台詞を口にするのだろう。


 ─── “人形ジンのもの”が、どうしてその仲間に刃を向けるの?


 そう、心底不思議そうに、自身が放った言葉を疑いもしないで。


「……チッ」


 結局、ウォッカは舌打ちしたあとはひたすら黙ってリビングのソファに座り込み、ひじりもまた時間が経つまで殆どの生活スペースたる寝室に引っ込んだ。
 そして数時間後、ひじりが再びキッチンに顔を出し、その頃にはウォッカの波立っていた感情も凪いでいて、2人はまたキッチンに並んで立った。

 衣は片栗粉、小麦粉、卵で作る。これをボウルに入れ、水は入れないで、寝かせた肉を水分を切りながら投入。ボウルに入れた肉に衣をつけたら高温に熱した油で揚げる。キツネ色になったら出来上がりだ。
 しかし、確かひじりが揚げ物をするのは初めてなため、ウォッカはまず自分が手本を示していくつか作ってみせ、場所を代わってひじりがフライパンの前に立った。

 バチバチバチと鋭い音を立てて油が跳ねる。
 慣れない熱の痛みにひじりの無表情がほんの僅かに強張り、しかし無言で教わった通りに肉を油に投入していった。
 初めてなだけあってたどたどしいが、筋は良い。あとはひじりに任せるかとひじりから視線を外して首を鳴らしたウォッカは、しかし唐突に油の跳ねる音に混じってカシャン!と菜箸が床に落ちた音を聞くとすぐに戻した。


「…っ…」

「おい、どうした!?」


 菜箸が床に転がり、目を片手で覆うように押さえて膝をついたひじりにさすがに慌てる。すぐに火を止めてしゃがみこんだひじりに合わせて腰を屈めると、ひじりは目を押さえたまま口を開いた。


「…油が跳ねて当たっただけ。問題ない」

「目に入ったのか」

「違う、と思う。咄嗟に目を閉じたからたぶん瞼に当たった。でも痛くて目が開けられない」


 冷静に淡々と状況を伝えるひじりに、ウォッカは小さくため息をつき、とにかく見せてみろとひじりの手を顔から外した。
 料理の最中の怪我であっても、ジンは自分以外が無闇にひじりに傷をつけることを許しはしない。だからもし酷い火傷になるようなら、監督不行届としてウォッカが数発殴られることは間違いない。
 あまりにも理不尽すぎて内心涙がちょちょ切れそうになりながらも両目を閉ざしたひじりの顔を覗きこむと、確かに左の瞼が少しだけ赤かった。しかしこれくらいなら軽く冷やせば問題ないだろう。
 ウォッカは自分の身が危なくならずに済みそうで安堵のため息をついた。


「……何をしている?」


 唐突に聞き慣れた絶対零度の声が降り注いで、ウォッカはぞっと背筋を凍らせると同時、反射的にひじりからすぐさま離れて距離を取った。
 いつの間に。慌てて顔を上げればひじりの後ろにいたのはやはりジンで、ジンは底冷えするような深緑の目でウォッカを睨みつけている。それにだらだらと冷や汗を流しながら両手を挙げ勢いよく首を横に振って言葉にならない弁解を胸の内で捲し立てた。
 俺は何もしてませんし何もするつもりもねぇです。だからその手に構えたベレッタを仕舞ってくだせぇ。ウォッカは本気で泣きそうだった。


「…ジン?あれ、いつ来てた?」

「………」


 目を閉じたまま怯えた様子のかけらもなくひじりが背後を振り返り、それに対して何かを言いかけたジンは、しかしひじりの左瞼が少しだけ赤くなっているのを見て口を閉ざした。ちらりとコンロに乗ったままのフライパンを見て鼻を鳴らす。状況を察したようだ。


「…俺は寝る。お前はその酷ぇツラをどうにかしておけ」

「顔についてはともかく私は帽子掛けじゃないんだけど」


 ひじりが淡々と不満をもらした通り、ジンは自分がかぶっていた帽子をひじりにかぶせてウォッカを一瞥すると無言で寝室へと入って行った。
 それを見送り、どうやら逆鱗には触れなかったらしいと命の危機が去ったことに深く安堵の息をついたウォッカは、ジンの物のせいで大きく、視界を遮る帽子をかぶりながら薄く右目を開けて立ち上がろうとしているのを見て慌てて止めた。


「お前は動くな!ふらふらと動かれてフライパン引っ繰り返されちゃ困る!」

「…そこまでドジじゃないよ」

「とにかく動くな!!」


 何のために兄貴が帽子をかぶらせたと思ってやがる!とは言えずに内心に留まり、兄貴ももう少し優しく分かりやすい言葉をかけてやった方が良かったんじゃないかとやはり内心でこっそり続けたウォッカは、しかし意見できるはずもないため腹の奥底へ呑み込んで、小さく息をつくとすぐに動き出した。





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